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2021年10月19日05:15

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満州国誕生

新国家建設の筋書きについては、手まわしよく打ち合わせが済んでいました。奉天、吉林、黒龍江の各省主席をもって、中央政務委員会を組織し、新国家建設にともなうすべての準備を行なうことになっていたのです。

その大綱は関東軍で用意し、法制、金融については、事変の当初から専門家により研究が重ねられ、さらに成案を得るため一月以来、内地の大学教授をはじめ十数名の権威により成文化してありました。一月といえば、ハルピン進攻を開始したころです。

その頃すでに法制、金融など諸問題について研究をはじめていたというから、やはり石原莞爾の大言壮語は口先だけではなかったのです。さて、残る問題は溥儀の元首の形式を、「大総統」「皇帝」のいずれにするかです。溥儀の側近者は、「皇帝」にすることを強く希望していました。

その後、数次にわたって建国会議が開かれましたが、2月16日、張景恵、馬占山、熙治、蔵式教の四省長が会見し、17日には独立宣言文が審議されました。明くる18日、張景恵ら四省長の連名で満蒙の独立が内外に宣言されました。事変の勃発から、じつに五ヵ月目でした。

それからも建国会議は引き続き行なわれましたが、共和制にするか帝制にするかで大いにもめ、結論が出ないままとなっていました。事変が勃発して以来、関東軍に協力してきた満州青年連盟は、共和制の実現を強く希望し、問題は紛糾をきわめたので、板垣参謀の仲介で溥儀をただちに皇帝とはせず、当座は「執政」ということで落着しました。

いずれにしても、建国への準備はできたのです。あくまで民本主義を守り、国の名称は満州国、国首は前記のとおり執政、年号は大同、国旗は新五色旗、首都は長春と決定しました。新満州国の建設の内容は、石原莞爾の提唱した日支大同思想を取り入れてでした。それまでの侵略思想からすれば前代未聞のものでした。

中央の反対が予想されるので、石原莞爾は趣意書を持って単身、東京へ飛び、政府や中央の要路を歴訪しました。
一、満蒙問題の解決は、目前の小利、小益に走ることなく、世界大勢の推移と東方アジアの将来とを考慮して、善処しなければならない。
二、ソ連の極東政策を断念せしめ、絶対不敗の国防を確立するには、中国をはじめ、東亜諸民族と真の大同団結を完成しなければならない。
三、その第一着手として満州国を理想郷としなければならない。新たに建設される満州は、中国のための失地にあらず、日本のための領土にあらず、日支両国共同の独立国家であると共に諸民族協和の理想郷である。
四、わずかな利益を得ようとして、権力をもって漢民族を圧迫せんとするがごときは、三千万民衆の怨みを買って崩壊した張学良の愚を学ぶに均しい。
五、在満日本人は、裸一貫となって諸民族の間に伍し、闊達な競争によって生存権を確立すべきであって、満州国成立と同時に、治外法権や付属地行政権などの特権は、即時撤廃しなければならない。法律をもって日本人の特権を保護することは、日本人の優越観を助長し、他民族との不和を助成し、かつ日本人を堕落に導くものである。

反対意見を予想し、情理を尽くして説得に当たったところ、反対意見はどこからも出なかった。反対意見どころか、「非常に結構である。その趣旨で満州国の建設に励んでくれ」と激励されたのです。石原莞爾は、要路の人々から思わぬ激励を受けて奉天へ帰ってみると、軍司令部は執政就任式の準備でお祭り騒ぎの最中だったのです。

石原莞爾はきわめて冷静に、「そんなことは、国務院長予定者である鄭孝脊にでも一任すればいい。関東軍はそこまで立ち入ることはない。お節介というものだ。仮に溥儀の身の上になにか事が起こったにしても、満州国建国の方針には微塵も変化はない」とつぶやいた。

熱しやすく、さめやすい。そして不和雷同、それは日本人の特性、そして短所だ。だから関東軍の幕僚たちも、ワッと燃え上がってしまったらしい。溥儀の執政就任式は、昭和7年3月9日の午後3時から、長春市政公署一階の大広間礼室で拳行されたのでした。

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