mixiユーザー(id:21587781)

2020年04月06日05:35

127 view

満州事変の原因とは

19世紀にはじまる産業革命の波は資本主義列強の侵略によってアジア、アフリカの大半は、その植民地となってしまいました。明治維新によってスタートした日本は列強の侵略から国を守るため、富国強兵に遭進したのは当然のことでしょう。20

世紀初頭の日露戦争における日本の勝利は、コロンブス以外の白人による世界支配の流れを完全に変えてしまいました。日本の勝利はアジア、アフリカの民族解放、独立に一大光明を与えたのです。第一次世界大戦は英独を中心とする白人同士の覇権争いとなり、欧米の没落、アメリカの世界支配を決定的なものにしました。

以後、欧米列強は国際連盟中心に、日本の頭を抑える基本戦略を取りましが、ロシア革命によってより強大な共産主義の脅威にさらされました。日本は第一次大戦以後、欧米との協調外交を基本として、対支外交においても「幣原外交」に象徴されるように徹底した平和協調外交でありました。

それにも拘らずワシントン会議において米中両国に迫害されて中国における特殊権益を喪失し、希望していたわけでもない日英同盟を破棄される立場に追い込まれました。北一輝が「支那革命外史」において、対支外交を厳しく批判し、その革命的転換を呼び掛けたのは確かに正論だったのです。

だが、すでにコミンテルンの魔手は中国に及び、孫文の国民党はソ連路線に突入していたのです。軍閥による中国の内戦は蒋介石の北伐によって終了しつつありましたが、孫文の国共合作はコミンテルンの媒略によって国民党内の赤化を促進し、ナショナリズの矛先は反英闘争から反日闘争へと転化され、日中関係は悪化の一途を辿るだけでした。

満州事変はその結果であり、日中衝突の原因となったという見方は誤りなのです。リットン調査団の報告書は「満州事変を自衛の戦争とは認められない」といものでした。そのために戦後は「日本の侵略である」と宣伝され定説化しているのですが、それは正しい解釈とは言えないことはこれまでも述べたとおりです。

なぜか。1928年のパリ不戦条約では一応戦争そのものをなくそうと「正当な理由なくしかける『侵攻戦争』は違法、それに対する『自衛戦争』は適法となっていたのです。ところが各国が条約への調印をためらった為、侵攻か自衛かは『各国自身が認定する』ということになってしまったからなのです。

しかし、『我が国はこれから違法な戦争をする』と宣言する国があるわけもなく、条約は全く無意味なものとなり、実際その後に第二次世界大戦が勃発したのです。東京裁判は「大東亜戦争は日本の侵略戦争である」と断定しました。

しかし、その3年後に東京裁判を主導した最高責任者のマッカーサーが「あの戦争は日本の安全保障のための戦争、つまり自衛のための戦争であった」そしてさらに「リットン卿は『満州事変は侵略である』と判定しましたが、中ソの侵略を防衛するために満州国は必要だった」と述べているのです。そもそも、戦争に媒略はつきものでしょう。

特に第二次大戦までは世界は「戦争と媒略」の最盛期だったことを忘れてはならないのです。満州事変が今日、中国で宣伝するように、日本の一方的侵略戦争であったならば、なぜ連合国は東京裁判で満州事変を徹底的に裁けなかったのであろうか。

満州事変を計画し、実行した中心人物は石原莞爾です。その石原莞爾は酒田の法廷で、ノースクロフト判事に「満州事変をやった一番の責任者は私である。なぜ私を戦犯にしないのか」と叫んだ時、判事は蒼くなって「あなたは戦犯ではない」と白状しています。要するに連合国は満州事変を「侵略戦争」と裁く自信がなかったのです。

10 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2020年04月>
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  

最近の日記

もっと見る