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2019年12月08日07:29

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勝海舟と西郷隆盛

龍馬を育てた幕府一の頭脳と言えば勝海舟(1823〜1899)でしょう。江戸で旗本の家に生まれ、剣術にも学問にも熱心な子でした。1853年、アメリカのペリーが黒船でやってきて、幕府に開国を迫ると、老中に安倍正弘は、海の守りについての意見を広く求めました。

このとき、31歳の勝海舟は、優れた意見書を出し、それが認められて出世のきっかけをつかんだと言います。開国後、1860年には、「咸臨丸」でアメリカにわたります。その経験から、幕府のことより、日本のことを思うようになり、西郷や龍馬など維新志士とも交流しました。龍馬は、勝海舟の時代を見据えた新しい考え方に影響を受け、師と仰いだ。

幕府の中の、古い考えを持つ人たちとは対立しましたが、戊辰戦争で、薩長を相手に話の出来る人物は、勝海舟のほかにはいませんでした。新政府軍の総大将、西郷隆盛に交渉を持ち掛け、江戸常務結果異常を成功させました。明治の新政府の中でも要職をつとめましたが、77歳の時、ふろ上がりに倒れ、「これでおしまい」といって息を引き取りました。

薩長連合を実現した薩摩のリーダーは西郷隆盛(1827〜1877)です。西郷隆盛は薩摩の国の身分の低い国に生まれました。藩の学校で勉強に励み、28歳の時に藩主の島津斉彬に見いだされ、お供として江戸に行くようになります。

島津斉彬は、開国を前に、幕府と天皇の結びつきを強くすべきと考えていました。ところが、大老の井伊直弼が、天皇に断りなく開国を決めたことで、長州を中心に幕府への批判が高まります。その島津斉彬が急死したため、しばらく身を引きますが、世の中が大きく動き始めると、薩摩は西郷隆盛の力を必要とするようになりました。

坂本龍馬にうながされて実現した薩長連合から、大政奉還、戊辰戦争、明治維新に至るまで、西郷隆盛は中心人物として活躍しました。新政府でも、重要な地位に就いたのですが、意見の違いから政府を去り、故郷に帰えりました。

すると、新しい時代についていけず、新政府に不安を持つものが、大勢集まってきました。ほとんどがもとの武士階級です。その勢いを抑えられず、ついに反乱を起こし、政府軍が守る熊本鎮台をせめたのです。これが日本最大で最後の内乱、西南戦争で、西郷隆盛は完敗し、自決したのです。

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