74年は国際プロレスにとっては受難の年。「新春パイオニア・シリーズ」ではIWA世界ヘビー級王者に返り咲いたストロング小林が1月14日、寝屋川市市民体育館、19日、川崎市体育館の2度に亘りカウボーイ・ビル・ワットの挑戦を退けましたが、いずれも反則含
8月29日、ノアの後楽園ホール大会を観戦して来ました。ノアは16年10月23日、横浜文化体育館以来実に約3年ぶりの会場観戦でしたが、お目当てはイホ・デ・ドクトル・ワグナーJr。イホ・デ・ワグナーJrは第4試合で杉浦貴&KAZUMA SAKAMOTO、大原
国際プロレス73年最終シリーズ「ビッグ・ウィンター・シリーズ」には当時の未だ見ぬ強豪の最有力候補であった"狼酋長"ワフー・マクダニエルが待望の初来日を果たしました。吉原、グレート草津ラインで徐々にランクを落とされつつあったIWA世界ヘビー級王者
日本プロレスが73年4月20日、群馬県吉井町体育館大会を最後に19年間の興行活動を停止したことで、日本プロレスの「残党」と言われた国内で試合に出ていた大木金太郎、上田馬之助、高千穂明久(ザ・グレート・カブキ)グレート小鹿、松岡厳鉄、ミツ・ヒライ、桜
馬場の全日本プロレスも、日本陣営の駒が徐々に揃ってきました。72年10月31日、ミュンヘン五輪アマレス日本代表の鶴田友美(当時21歳)の入団を発表。72年12月19日、新潟市体育館で馬場との世界ヘビー級王座争覇戦第4戦に敗れたザ・デストロイヤーが試合前の公
73年1月6日、岐阜市民センターで開幕の全日本プロレス「新春ジャイアント・シリーズ」には国際プロレスは鶴見五郎、八木宏(剛竜馬)をレンタル。続く2月10日、新宿区体育館で開幕の「ジャイアント・シリーズ結集戦」には開幕戦のみマイティ井上、寺西勇、八
国際プロレス72年ビッグ・ウィンター・シリーズ、11月27日、愛知県体育館ではディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキー組のWWA世界タッグ王座にストロング小林、グレート草津組が金網デスマッチで挑戦。ブル・クラの金網での闘いを見ようと愛
馬場の率いる全日本プロレスは日本テレビが最初から放送に付き、力道山家(百田家)も全面協力。力道山家は63年に力道山が亡くなった時、豊登、芳の里、遠藤幸吉といった日本プロレスに新たに役員に就任した幹部達から「力道山先生の忘れ形見、義浩君と光雄君が
馬場が日本プロレスから独立。日本テレビの支援を受けて72年10月には全日本プロレスを旗揚げ。猪木、馬場に相次いで去られた日本プロレスは坂口征二、大木金太郎の二枚看板で興行することを余儀なくなれましたが観客動員、テレビ視聴率とも低下。71年末には日
72年3月26日、札幌中島スポーツセンターで開幕した「第4回IWAワールド・シリーズ」は前年度優勝者のモンスター・ロシモフの他、AWAとの提携路線に乗り、ドン・レオ・ジョナサン、バロン・フォン・ラシク、ホースト・ホフマン、ジョージ・ゴーディエン
サンダー杉山からビル・ミラーの手に渡り、海外流失していたIWA世界ヘビー級王座ですが、アメリカ修行中のストロング小林が71年6月19日、ミネソタ州ダルースでBミラーに挑戦。58分26秒の死闘の末、体固めでBミラーを破り王座を獲得した、とありますが、
第2代IWA世界ヘビー級王者サンダー杉山は、ビル・ロビンソンから王座獲得後、ドクター・デス(ムース・モロウスキー)、エドワード・カーペンティア、ジャック・デ・ラサルテス、ブルー・ディモン(レス=バディ・ウォルフ)、メッサーシュミット(クラウス・
国際プロレスでは70年1月の「新春パイオニア・シリーズ」にAWA世界ヘビー級王者バーン・ガニアを招聘。(終盤戦特別参加)、併せてモンスター・ロシモフが初来日しています。1月9日、国際のリングに上がっていた豊登が体力の限界を理由に引退を発表。ロシ
初代IWA世界ヘビー級王者となったビル・ロビンソンは国際プロレスと半年契約で日本に家族と共に移住。正義の外国人レスラーとして日本側に付き試合を行い、外国人=ヒールという図式を変えて見せました。69年の1月1日に国際プロレスは宮崎県体育館で新春
国際プロレス、68年シリーズ第2弾は「ワールド・タッグ・シリーズ」。TWWA世界タッグ王者チームのアル・コステロ&ドン・ケント組のザ・ファビュラス・カンガルーズ(2代目)、フレッド・カリーらが来日。TWWA世界ヘビー級王者のダニー・ホッジは残留
国際プロレスではグレート草津を4週連続ルー・テーズのTWWA世界ヘビー級王座に挑戦させる計画もあったと聞きますが、開幕戦の日大講堂で草津が惨敗してしまった為にこの計画も頓挫。まさに国際プロレスの茨の道を予想させるような残念な船出となりました
国際プロレスはTBS体制の元、68年1月3日の日大講堂から再スタートを切りましたが、この開催を知った日本プロレスが当日、蔵前国技館大会をぶつけて来ました。いわゆる「隅田川決戦」というやつで、隅田川を挟んで歩いて行ける距離にある日大講堂と蔵前国
国際プロレスは、外国人ルートについてはヒロ・マツダがブッカーとなり、フロリダのエディ・グラハムの主催するCWF(チャンピオンシップ・レスリング・フロリダ)から調達が可能でしたが、日本人選手がマツダ、ミスター鈴木以外にはいませんでした。 一方
85年6月10日、元国際プロレス(法人名インターナショナル・レスリング・エンタープライズ株式会社)代表取締役で新日本プロレス顧問であった吉原功氏が胃癌の為、埼玉県大宮市(現さいたま市大宮区)の病院で亡くなっています。享年55歳。吉原は30年3月2日、北
85年IWGP&WWFチャンピオン・シリーズ第25戦は6月8日、長野・飯田市勤労者体育センター(観衆2,710人超満員発表)大会。ハルク・ホーガン効果があったか、2日連続の超満員発表となりました。メインイベントは猪木&藤波&木村健吾組vsアンドレ・ザ・
85年IWGP&WWFチャンピオン・シリーズ第25戦は6月7日、松本市総合体育館(テレビ生中継、観衆4,340人超満員発表)。過去2回の大会に比べ、観客動員では苦戦していましたが、25戦にして地方大会初の超満員発表が出ました。メインイベントはこの日から
85年IWGP&WWFチャンピオン・シリーズ第24戦は6月6日、仙台・宮城県スポーツセンター(観衆4,150人発表)大会。メインイベントでは猪木vsキングコング・バンディの今シリーズ2度目、通算4度目のシングルマッチ。5月20日、広島県立体育館での初戦で
85年IWGP&WWFチャンピオン・シリーズ第21戦は6月4日、盛岡・岩手県営体育館(観衆3,630人満員発表)大会。メインイベントでは猪木&藤波&ザ・コブラ組がトリオを結成し、ペドロ・モラレス&キングコング・バンディ&アドリアン・アドニス組と対戦。
85年IWGP&WWFチャンピオン・シリーズも終盤戦にさしかかりました。第19戦は6月2日、新潟・上越市リージョンプラザ・インドアスタジアム(観衆3,150人満員発表)大会。IWGP挑戦者決定トーナメントもベスト4が決まり、公式戦のない興行が続きます
85年IWGP&WWFチャンピオン・シリーズ第17戦は5月29日、相模原市立総合体育館(観衆2,120発表)大会。メインイベントでは猪木&藤波&木村健吾組がアンドレ・ザ・ジャイアント&ペドロ・モラレス&キングコング・バンディ組と対戦。アンドレとモラレス
85年IWGP&WWFチャンピオン・シリーズ第15戦は5月27日、静岡産業館(現ツインメッセ静岡、観衆3,040人満員発表)大会。メインイベントは猪木&木村健吾&高野俊二組のトリオがアンドレ・ザ・ジャイアント&マスクド・スーパースター&アイアン・マイク
85年IWGP&WWFチャンピオン・シリーズ第13戦は5月25日、姫路市厚生会館(観衆3,480人発表)大会。メインイベントでは猪木&藤波組がキングコング・バンディ&アイアン・マイク・シャープ組と対戦、9分16秒、藤波がシャープを体固めに決めて猪木&藤波
85年IWGP&WWFチャンピオン・シリーズ第12戦は新日本プロレス初使用となる5月24日、神戸ワールド記念ホール(テレビ生中継、観衆8,160人満員発表)大会。ワールド記念ホールは84年のユニバーシアード神戸の時に作られた多目的ホールで、約8,000人を収容
85年IWGP&WWFチャンピオン・シリーズ、第10戦は5月21日、香川・丸亀市民体育館(観衆2,360人発表)大会。この日はタイトルマッチもスペシャルマッチもトーナメント公式戦もない通常の興行でした。やはりトーナメント方式だと地方大会でこのような日が
85年IWGP&WWFチャンピオン・シリーズ第9戦は5月20日、広島県立体育館(観衆4,870人発表)大会。広島は昔から新日本プロレスに限らず、徳島と並んで集客の厳しい地域ではありましたが(現在は広島は新日本プロレス人気が定着。広島カープファンを公言し