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日記一覧

猪木はアンドレ・ザ・ジャイアントとの格闘技世界一決定戦を終えるとすぐさま韓国に遠征。76年10月10日、ソウル市奨忠体育館でパク・ソンナン(朴松男)の挑戦を受けてNWFヘビー級王座の防衛戦を行っています。この試合、ポニーキャニオンより発売されたビデ

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アンドレ・ザ・ジャイアントのグラウンドに引き込んでの攻めを一瞬の下からのヘッドシザースで鮮やかに切り返した猪木でしたが再びアンドレに捕まります。猪木を正座のような感じでマットに座らせるとショートレンジから至近距離でのヘッドバット、ダウンした

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76年10月7日、蔵前国技館大会メインイベント、猪木vsアンドレ・ザ・ジャイアントの格闘技世界一決定戦。この試合に新日本プロレスが立会人としてビンス・マクマホン・シニアを呼んだのもこの一戦が6・26の「勝者同士」による格闘技世界一戦であることのお墨

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山本小鉄から投げつけられた赤のショートタイツを受け取った上田馬之助は一旦控室へと退場。タイツ姿に着替えるや、リングに上がり小鉄との「番外試合」。場外で小鉄のコーナーポストからのダイビング・ボディプレスを自爆させた上田は鉄柱に小鉄の額を一撃。

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76年10月6日新日本プロレス大阪府立体育会館でウィリエム・ルスカが8か月ぶりに「日本の」新日本のリングに参戦し、3分45秒、裸絞めで木戸修を破っています。おそらく、試合の内容はロサンゼルスでジョバーを相手に見せていたものと大差なかったことでしょ

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76年も終盤に入ると、年末のビッグマッチで猪木が誰と対戦するのかが争議の的になっていきました。闘魂シリーズ終盤の10月6日、大阪府立体育会館と10月7日、蔵前国技館で動きがありました。この時点で猪木の首を狙い対戦表明をしていたのはイワン・コロフ、

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猪木がNWF世界ヘビー級王座から「世界」の2文字を削除することに関しては抵抗はなかったようです。前75年、猪木はNWA加盟を「条件付き」で認められた際、その中の条件の一つに「猪木のNWA世界王座への挑戦は1年以上は認めない」という項目があり、

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新日本プロレス側は76年8月5日、蔵前国技館で猪木vsタイガー・ジェット・シンのNWF世界ヘビー級選手権試合のセミファイナルにストロング小林と上田馬之助の試合を行うと発表しました。S小林は東スポのインタビューに答え、「日本人でありながら汚い試合

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76年後半はまだら狼上田馬之助が猪木に挑戦を表明。73年4月20日、群馬県吉井町体育館での興行を最後に日本プロレスが崩壊。日本プロレスの残党だった上田は他の選手と同様に日本テレビ、百田家(力道山家)の仲介で全日本プロレスのリングに上がりましたが、10

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モハメド・アリと猪木の試合は、アメリカにおけるクローズド・サーキット(有料による衛星中継によるライブ上映)の興行収入が当初の目標を大幅に下回り、新日本プロレスは7億円とも9億円とも言われる過大な負債を背負いました。NETテレビ(テレビ朝日)がこ

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ビル・ロビンソン戦の激闘の実況の後はスローテンポにアレンジされた「燃える闘魂」のバラード・ヴァージョンに乗せて元キャロルのジョニー大倉による「戦いの境地」なる詩の朗読。いくたびか俺の肉体を通り過ぎて行ったあの巨人たちいくたびか孤独地獄の中で

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舟橋アナ「昭和47年3月、アントニオ猪木は自らの理想を試さんと、新日本プロレスを旗揚げ。旗揚げ戦の相手は師匠であるカール・ゴッチだった。ゴッチは必殺のジャーマン・スープレックスホールドで完膚なきにまで猪木を叩き潰した。それは獅子が我が子を千尋

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舟橋アナ「アントニオ猪木の激動と波乱の人生の中で華やかで微笑ましい話題と言えば、人気女優、倍賞美津子との結婚である」猪木「最初は飲み友達って言うか、食い友達で、お互いに『あっちが美味しい、こっちが美味しい』って、恋愛感情、まあありましたけど

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猪木の日本プロレス入門からアメリカ武者修行については空港に着いて出迎えがなかったこと、グレイハウンドの長距離バスに乗り、今日はテキサス、明日はテネシーと闘いの旅を続けた、と割と簡単にまとめられています。豊登による太平洋上猪木略奪事件から東京

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76年12月、CBSソニーレコードより桜井さん監修による猪木のオリジナルアルバム「燃える闘魂」(LPレコード2枚組4000円、カセット3400円)が発売されました。ファン時代の高田延彦が「正座して聞いた」と言われるアルバムですが、家庭用ビデオデッキが普及

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モハメド・アリvs猪木の格闘技世界一決定戦は3分15ラウンドフルに戦って引き分けとなりました。見終わった正直な感想は「猪木が無事にリングを降りることが出来て良かった」と言うところです。私はテレビ観戦が終わった後、駅売店に東スポの速報号を買いに出

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76年6月26日、日本武道館で行われたモハメド・アリvs猪木の格闘技世界一決定戦。猪木はグラウンドのポジションで下からのローキック狙いに終始、当初は猪木のキック攻撃に対し何やらわめき散らしながらリング中央をグルグルと回っているアリ、という展開が続

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「勝った方がファイトマネー総取り」という猪木のウィナーテイクオールの提案は番組の中ではモハメド・アリは一旦は飲んだものの、アリ側のエージェントであるトップランク社のボブ・アラム、リンカーン・プロダクションのロナルド・ホームズ達は「あり得ない

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モハメド・アリと猪木の世紀の一戦の3日前の76年6月23日、午後7時30分より「水曜スペシャル」において新宿・京王プラザホテルから生中継で前夜祭(前夜ではないが)及びディナーパーティーの模様が90分枠で放送されました。この時は一般の観客も会場で見るこ

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76年6月20日、日曜日昼の後楽園ホールではチケット代3000円を徴求してのアリと猪木の公開スパーリングが行われました。アリはアメリカから連れてきたスパーリングパートナーのヘビー級ボクサー2人を相手にしての実戦スパーリングを見せて、改めて世界最強の

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モハメド・アリは猪木との試合を筋書きのあるフィックスファイトと認識していましたが、猪木側はアリが来日した際にこの試合は真剣勝負だと主張したとのことです。アリは「打ち合わせはいつやるんだ」と聞いたところ新間は「これは打ち合わせなしの真剣勝負で

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76年6月16日、決戦10日前、モハメド・アリがついに来日。東京国際空港(羽田)に降り立ったアリはマネージャーのフレッド・ブラッシーと共に報道陣の前に姿を現し拳をあげて威嚇しながら登場。試合の為に来日したのは72年9月1日、日本武道館でのマックス・フ

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76年6月10日、イリノイ州シカゴ・インターナショナル・アンフィシアターのリングに上がったモハメド・アリはプロレスラーのケニー・ジャイと対戦しました。アリはジャイ相手におそらくマネージャーでありプロレスのトレーナーであるフレッド・ブラッシーから

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モハメド・アリはこの76年、2月から5月の僅か3か月間に世界タイトルマッチを3回も行い、その強靭な体力を見せつけました。74年10月30日、南アフリカザイール共和国キンシャサにおいてジョージ・フォアマンを破り、世界ヘビー級王座に返り咲いた後は75年は

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ペドロ・モラレスが初参戦した76年第3回ワールド・リーグ戦は4月2日、川崎市体育館で開幕。前年、キラー・カール・クラップ、スーパー・デストロイヤー(ネイル・グアイ)位しか優勝戦線に絡める外国人選手がいない中、猪木、坂口、ストロング小林、大木金太

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74年に新日本プロレスがWWWFと業務提携を開始して以来、元WWWF(世界)ヘビー級王者の新日本登場は74年4月のスタン・スタージャック、75年11月のイワン・コロフに次いで3人目。しかし、この2人はいずれもショートリリーフのヒールチャンプでした。ペ

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新日本プロレスと全日本プロレスの引き抜き抗争と言えば81年5月のアブドーラ・ザ・ブッチャーの新日本プロレス移籍から始まっている感が強いですが、それ以前にも引き抜きがなかった訳ではありません。前々回、ビル・ロビンソンが新日本から全日本へ移った経

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モハメド・アリと猪木の20世紀最大のスーパー・ファイトの調印式の模様はUPI、AP、ロイター等の各大手通信社、ニューヨークタイムス紙、ニューヨークポストと言った新聞社等米メディアでも取り上げられました。桜井さんのロマン溢れるファンタジープロレ

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猪木はモハメド・アリの挑発に対し、ずっと微笑みを絶やさず、沈黙を保ったまま。黙り続ける猪木にアリは痺れを切らしたか猪木に向けて再び舌鋒を向けました。「おい、ペリカン野郎!何で黙ってるんだ。何なら今ここでやってもいいんだぞっ!」ようやくここで

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