馬場、鶴田、天龍のアメリカ遠征第3戦は82年2月21日フロリダ州オキチョビー・クリスタルレイクリゾート。ここでは18人参加のバトルロイヤルが行われ、決勝でドリー・ファンク・ジュニアが鶴田をオーバー・ザ・トップロープに降し優勝しています。翌2月22日
カンサスを離れた後の馬場、鶴田はフロリダへ移動し天龍と合流、82年2月20日にはフロリダ州セントピータースバーグ・ベイフロントセンターアリーナでの興行に出場しています。この日は日本テレビによる収録がありました。特筆すべきは日本テレビ収録によるア
馬場、鶴田、天龍のアメリカ遠征はまず初戦は82年2月18日、カンサス州カンサスシティ・メモリアルホール大会、天龍はカンサスには参戦せず、フロリダで馬場、鶴田と合流というスケジュールになりました。馬場、鶴田組はこの日、ブルーザー・ブロディ、ジェリ
フロリダのCWFの共同オーナーでもあったヒロ・マツダは新日本プロレスとエディ・グラハムが疎遠となってしまった後も個人的に新日本のエージェントの仕事は続けていました。そんな中、引き抜き抗争勃発の余波を受け、新日本の管理下にあったNWAインター
猪木は75年にNWAに加盟しながらも、ついにNWA世界ヘビー級王座に挑戦出来ずに終わっています。新日本プロレスの新間寿営業本部長は「藤波にNWA世界ジュニアのベルトを巻かせたい」と策走、ビンス・マクマホン・シニア、マイク・ラーベルを通じてエデ
前年81年5月のアブドーラ・ザ・ブッチャー新日本プロレス移籍に端を発した新日本と全日本プロレスの引き抜き抗争は、年末に来ての新日本の強さの象徴であったスタン・ハンセンの全日本移籍で誰が見ても仕掛けた新日本の逆転負けに終わりました。ハンセンを奪
全日本プロレス82年新春ジャイアント・シリーズ最終戦、2月4日、東京体育館は超満員11500人発表の大観衆が集まりました。私達は高輪東武ホテルを後にした後、近くのファミレスで時間を潰してから会場入り。当日券売場は千駄ヶ谷駅前まで並ぶ長蛇の列が出来
馬場とスタン・ハンセンシリーズ最後の前哨戦は82年2月1日、京都・日本正武館大会で行われています。馬場、天龍、石川隆士組vsハンセン、上田馬之助、ケリー・キニスキー組。1本目は外国人組がリングアウト勝ち、2本目は馬場がKキニスキーを片エビ固め。
全日本プロレスに参戦したスタン・ハンセンと馬場、鶴田の「復帰後初対戦」はシリーズ第13戦の82年1月17日、深谷市民体育館で実現しています。馬場、鶴田とハンセンは初来日時の75年9月ジャイアント・シリーズで何回も対戦していますが、これはハンセンの当
スタン・ハンセン全日本プロレス参戦第1戦となったのは82年1月15日、木更津市倉形スポーツ会館(テレビ収録)。ハンセンの初来日は若手時代の75年9月、全日本のジャイアント・シリーズでしたので約6年4か月ぶりの全日本復帰となりました。会場の木更津市倉
82年新春ジャイアント・シリーズ開幕戦は1月2日後楽園ホール大会(テレビ収録)メインイベントは新春恒例の賞金100万円争奪ヘビー級バトルロイヤルで天龍が決勝でスウィート・ブラウン・シュガーを体固めで破り優勝。前年の好調ぶりを持続しています。馬場、