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日記一覧

76年3月25日、ニューヨークのプラザホテルにおいてプロボクシングWBA、WBC統一世界ヘビー級王者モハメド・アリと日本のプロレスリングNWF世界ヘビー級王者猪木とのワールド・マーシャルアーツ・ヘビーウェイト・チャンピオンシップの調印式が行われ

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モハメド・アリと猪木による世紀の大一番が発表されると日本のプロレス界はこの話題で持ちきりとなりましたが、報道する側には温度差がありました。桜井さんが第二運動部長を勤める東スポと桜井さんの弟分、竹内宏介さんが編集長のゴングはこぞってアリvs猪木

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ウィリエム・ルスカとの死闘を終えた猪木に朗報が…。76年2月24日付のアメリカ、ロサンゼルス版地方紙「ロサンゼルス・ヘラルド・エグザミナー」にプロボクシングWBA、WBC統一世界ヘビー級王者モハメド・アリと日本のプロレスラー、アントニオ猪木が6

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76年2月6日、日本武道館で行われた猪木とウィリエム・ルスカの格闘技世界一決定戦はテレビ生中継の視聴率が34.6%を記録(ビデオリサーチ調べ)し、69年7月2日の初回放送開始以来の高視聴率を記録しました。生中継の場合、CM、オープニング、エンディン

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76年2月6日、新春黄金シリーズ最終戦、日本武道館大会は12600人(満員)の観客を動員しました。当日は金曜日であり、午後8時よりワールドプロレスリングのレギュラー枠による生中継。テレビ中継のオープニングは前週の1月29日、大阪府立体育会館で猪木に顔

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76年1月9日、福岡九電記念体育館で、猪木とタイガー・ジェット・シンのシングルマッチが組まれました。(ノンタイトル60分1本勝負)試合前、シンは「猪木の武道館での対戦相手は俺ではないのか!何故あんな柔道野郎なんかと試合をするのか?こうなったら、猪

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76年1月7日、日比谷の帝国ホテルで記者会見が開かれた猪木vsウィリエム・ルスカの試合は「格闘技世界一決定戦」と銘打たれました。猪木はグレーのスーツ上下、ルスカはオランダの民族衣装で会見に臨み、会見終了後「裸になって欲しい」という記者からの要望

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76年新春黄金シリーズ最終戦の2月6日に新日本プロレスは初の日本武道館大会の開催を発表しました。64年東京五輪の柔道の試合場として開館した日本武道館ですが、11年半の歴史の中でプロレス興行の開催は2回のみ。初回は66年12月3日、日本プロレス。馬場の

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柔道とプロレスとの関わりは強く、67年2月17日、自身の25歳の誕生日に65年の柔道全日本選手権優勝、坂口征二(明治大学→旭化成)が日本プロレスに入団。この時は柔道界から反発の声が強く明大柔道部OB会、アントン・ヘーシンクと東京五輪で対戦し敗れた神永

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1921年(大正10年)3月5、6日の両日にかけて東京・九段の靖国神社相撲場で行われたアメリカ人プロレスラーアド・サンテル、ヘンリー・ウィーバーと日本人柔道家による日本初の異種格闘技戦。プロレスのリングを設えて試合時間は20分を1ラウンドとする3ラウ

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76年に入ると、年頭の1月7日、東京・日比谷の帝国ホテルで記者会見が行われ、ミュンヘン五輪重量級、無差別級2階級で金メダルを獲得した柔道家、オランダの赤鬼の異名を持つウィリエム・ルスカが「プロ格闘家」に転向し猪木に挑戦表明をしています。ここで

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75年12月11日、蔵前国技館で行われた猪木vsビル・ロビンソンのNWF世界ヘビー級選手権試合。ジックリとしたグラウンドの攻防の静寂を破るようなロビンソンのサイド・スープレックスが炸裂!舟橋慶一アナウンサー「早くも出ましたビル・ロビンソン、サイド・

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74年は猪木と新日本プロレスにとっては常に話題を提供し、試合内容も充実した躍進の1年でした。外国人招聘ルートも旗揚げ時はカール・ゴッチを窓口としたヨーロッパ勢が中心でしたが、先に書いたように2年目の73年にはタイガー・ジェット・シンが来日、元日

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ヒールレスラーが放送席を襲撃してアナウンサー、解説者に危害を加える、というのも昭和プロレスの定番でした。74年11月8日、後楽園ホール大会、「アラビアの怪人」ザ・シークが新日本プロレス初参戦、テレビ生中継で事件は起きました。シークはセミファイナ

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ストロング小林がフリーになって馬場、猪木に挑戦状、のニュースは当時話題を呼びましたが馬場は受ける訳もなく、猪木がこれを受諾、74年3月19日、蔵前国技館で猪木vsS小林のNWF世界ヘビー級選手権試合が実現しました。これは後に新日本プロレス側の引き

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72年という年は、54年2月19日、蔵前国技館で力道山、木村政彦組vsベンとマイクのシャープ兄弟による初のプロレス国際時代から2度目のプロレス冬の時代でした。最初のプロレス冬の時代は58年8月27日、ロサンゼルス・オリンピック・オーデトリアムで力道山が

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桜井さんは71年8月にゴング編集長の竹内宏介氏と一緒に2度目の海外マット取材に出かけました。フロリダで「チェーンデスマッチの鬼」と言われたグレート・ボリス・マレンコとディック・マードックのチェーンデスマッチをリングサイドで取材。(マードックの

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元テレビ朝日ワールドプロレスリング解説者で元東京スポーツ新聞社取締役編成局長だった桜井康雄さんが4月10日に亡くなられました。享年80歳。猪木プロレスの語り部としてワールドプロレスリングの解説を長く務め、舟橋慶一、古舘伊知郎アナウンサーとの絶妙

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猪木とビンス(425)
2017年04月11日21:02

83年はアブドーラ・ザ・ブッチャーの来日は7月の1回に終わり、5週間のシリーズながら3週間で帰国させられてしまい、シリーズ最終戦の8月4日、蔵前国技館にはその姿はなく、当初の契約は呆気なく反故にされてしまいました。84年は1月の新春黄金シリーズ

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猪木とビンス(424)
2017年04月10日20:35

アブドーラ・ザ・ブッチャーが新日本プロレスに移籍する時の条件として新日本側から呈示されたのは、3年契約、年間3シリーズ以上、15週間以上呼ぶというものでした。これは全日本プロレスに呼ばれていた頻度から考えて当然の話です。日本を主戦場にしていた

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猪木とビンス(423)
2017年04月09日14:29

猪木は常日頃から「対戦するもの同士がやりたくないカードこそ、見ている方が面白いんだ」と言っており、馬場のような配慮はありませんでした。個人的な因縁や遺恨をリング上のマッチメークに反映させることは普通にあり、代表的なところでは75年4月の第2回

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猪木とビンス(422)
2017年04月08日15:51

85年1月25日、徳山市(現周南市)体育館大会(観衆2500人発表、テレビ生中継)のメインイベントでは、猪木がアブドーラ・ザ・ブッチャーとの3年ぶりのシングル戦を行いました。ブッチャーは全日本プロレス潰しの為、81年5月、新日本プロレスが引き抜きを敢行。

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猪木とビンス(421)
2017年04月07日14:31

85年1月18日は八代市総合体育館大会(観衆3400人発表、テレビ生中継)。 97年にサムライTVで放送された新日本プロレスのレトロ番組「闘いのワンダーランド」ではこの大会を「八千代市」(千葉県)と誤ったテロップを流していますが、熊本県の八代市が正解です

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猪木とビンス(420)
2017年04月06日22:13

新日本プロレスの方は猪木、坂口、藤波、木村健吾がトップ4。日本側(正規軍)がタイガー戸口、ザ・コブラ(戸口とコブラは毎シリーズ出場せず)、星野勘太郎、高野俊二(拳磁)、アノアロ・アティサノエ(留学生)、ドン荒川、ブラック・キャット(欠場中)、金秀洪(

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猪木とビンス(419)
2017年04月05日18:52

新日本プロレスがストロング・マシンズの増殖などと言う子供騙しのギミックに頼らざるを得ない状況に陥っている一方で、長州力以下ジャパンプロレス勢がシリーズ本格参戦を果たした馬場の全日本プロレスは85年1月2日、後楽園ホールより「激突!オールスター

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猪木とビンス(418)
2017年04月04日21:17

85年1月4日、富士市吉原体育館(観衆3200人超満員発表)より白鯨キングコング・バンディが参戦。バンディはメインでハルク・ホーガン、ケリー・ブラウンとトリオを結成して猪木、藤波、星野勘太郎組と対戦。豪快なフライング・ボディプレスから星野を体固めに

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猪木とビンス(417)
2017年04月03日19:02

85年新春黄金シリーズ開幕戦(1月1日後楽園ホール)から新しい試みが為され、WWFにヒントを得たか、リング上にマイクボックスが吊られ、選手コールの時にそれが下に降りて来て、田中秀和リングアナウンサーがマイクを取り出してコールする仕組みでファンを

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猪木とビンス(416)
2017年04月02日13:24

アブドーラ・ザ・ブッチャーは前84年のブラディ・ファイト・シリーズ中盤戦に6戦だけ特別参加して以来、4か月ぶりの来日となりました。前回の来日ではテレビ登場は9月7日、福岡スポーツセンターでの藤波戦(両者フェンスアウト)のみ。新日本プロレスに引き

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猪木とビンス(415)
2017年04月01日12:22

旗揚げ以来、最大の総勢36人という選手、レフェリー、フロントの大量離脱に見舞われ、激動の84年をどうにか終えた新日本プロレスは「新日本プロレス元年」をスローガンに85年をスタートさせました。81年12月にスタン・ハンセンを全日本プロレスに抜かれた翌年

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