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日記一覧

プレ日本選手権決勝トーナメント準決勝、先ずは78年12月12日、仙台市レジャーセンターで猪木とマサ齋藤が対戦。M齋藤は74年4月の第1回ワールド・リーグ戦から新日本プロレスに参戦していますが、前回の77年6月のアジア・チャンピオン・シリーズまで、位置

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プレ日本選手権決勝トーナメントは坂口、マサ齋藤が準決勝進出でベスト4入りが確定。残る2枠は…。78年12月9日、四日市市体育館での準々決勝では猪木はストロング小林との対戦。4年9か月前の74年3月19日、蔵前国技館で行われた両者の最初の一騎討ちは、

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プレ日本選手権決勝トーナメントは78年12月5日、福岡九電記念体育館(テレビ収録)からスタート。決勝トーナメントはシード参加の猪木とヒロ・マツダ、予選リーグ戦下位通過2名となった28点の上田馬之助と24点の星野勘太郎の4人のみが1回戦を闘うこととなり

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プレ日本選手権は猪木が戻って来て予選リーグ戦も大詰め。78年12月3日は先日亡くなった荒川誠(真、ドン荒川)の地元である鹿児島県出水市高尾町体育館大会が行われ、坂口が藤波に4分36秒でリングアウト勝ち。ストロング小林vs剛竜馬という国際プロレスから新

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猪木は連日の激闘に及んだ欧州世界選手権シリーズから帰国して、早速新日本プロレスのプレ日本選手権に参戦しました。猪木は12月2日、名瀬市体育館からシリーズに合流、メインでは欧州世界選手権シリーズに同行した藤原喜明とタッグを組んで、ヒロ・マツダ、

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シュツットガルトの惨劇と言われたローラン・ボックvs猪木戦は4分10ラウンド闘って時間切れによる猪木の判定負け。試合を通して受けた印象としてはボックは終始、猪木の攻撃を受けることはせず、猪木の動きを完封してしまい、自分のやりたいことだけをやって

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ローラン・ボックvs猪木、ついに最終第10Rへ。第9R後半の荒れた試合展開をそのまま引き摺ってスタート。ボックはヘッドバット連発。猪木はたまらず場外へ転落。しかし猪木は素早くリングインしてリング中央で張り手。ボックも目尻からの出血をものともせず

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78年11月26日、西ドイツ・シュツットガルト・ギルスベルクホール、欧州世界選手権シリーズ決勝戦、ローラン・ボックvs猪木、試合は終盤に突入。第8R、ボックは投げを打ってからのアームロック、倒れた猪木の喉に膝を置いて動きを封じていきます。さらに体勢

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第5R開始のゴング。両者リング中央でロックアップ、猪木はフロント・ヘッドロックから得意のサイドからのチンロックに移行。首投げにいくもボックは腰を落としてこれを許さず。これまでの試合展開でボックは猪木にいいところを全く取らせません。猪木は強引

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第2R開始のゴング。ボックがリング中央に構え、猪木がその周りを回る流れに。猪木は寝てからアリキック。しかしボックは「効かない」とばかり手で払いのけていきます。ボックは組み付いて体勢を有利に持ち込んで猪木のバックに回り込みジャーマン・スープレ

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欧州世界選手権シリーズ決勝戦は78年11月26日、西ドイツ・シュツットガルト・ギルスベルク・ホールにて行われ、猪木の前に立ちはだかったのはローラン・ボックでした。一応、日本からやって来た猪木との対戦権をめぐってヨーロッパの選手が予選トーナメントを

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猪木欧州世界選手権シリーズ第14戦は78年11月23日、オランダ・ロッテルダム・マホイスポーツランドで行われ、猪木との対戦をキャンセルしたアントン・ヘーシンクに代わって同じオランダ出身の柔道家、ミュンヘン五輪重量級、無差別級2階級金メダリストのウィ

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78年2月で馬場の全日本プロレス、日本テレビとの契約が切れたアントン・ヘーシンクは帰国後も母国オランダに戻り、柔道の指導者として活躍しておりました。ヘーシンクがローラン・ボック主催の欧州世界選手権シリーズに参加して猪木と対戦すること自体は特に

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アントン・ヘーシンクのプロレスラーとしての評価は高いとは言えず、むしろ試合によっては嘲笑が起きる場面もしばしばありました。しかし、ヘーシンク側にも言い分があるはず。自分から売り込んだインバウンド案件ではなく、エコノミックアニマルと言われた高

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75年のオープン選手権以降、これまでの日本人vs外国人、外国人vs外国人に加え、日本人同士の対戦も解禁し、マッチメークに幅の広がった全日本プロレスにはアントン・ヘーシンクの居場所はなくなりつつありました。76年5月21日、後楽園ホールで開幕したNWA

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75年9月26日、後楽園ホールでのジャイアント・シリーズ開幕戦でヘーシンクはザ・デストロイヤーとタッグを組み、初来日のボビー・ジャガーズ、スタン・ハンセン組と対戦。ハンセンの来日第1戦の相手を務めたのがヘーシンクで15分8秒、ヘーシンクが逆エビ固

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アントン・ヘーシンクの柔道ジャケットマッチ第2弾は74年11月5日、大田区体育館でドン・レオ・ジョナサンと対戦。ヘーシンクは袈裟固めで1本取り判定勝ち。第3弾は75年1月25日、横浜文化体育館でのカリプス・ハリケーン戦でハリケーンはマスク姿に柔道着

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オランダの国民的英雄、64年東京五輪銀メダリスト、アントン・ヘーシンクは母国オランダで柔道の普及につとめていましたが、73年、突如としてプロレス転向を表明。旗揚げして1周年の全日本プロレスに入団を果たしました。最もこれは馬場の意図するところでは

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猪木の欧州世界選手権シリーズも連日、各地への移動と慣れない硬いマット、ラウンド制(試合は4分10ラウンド)、離れた相手に攻撃を加えてはいけないルール等の制約の中で連日の激闘を展開していきました。第10戦は78年11月19日、スイス・バーゼル市セントヤゴ

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新日本プロレスのプレ日本選手権予選リーグ戦も各地で熱戦を展開。78年11月25日、行田市民体育館では藤波と上田馬之助が対戦、5月26日、高松市民文化センターでのMSGシリーズ決勝リーグ戦では僅か2分57秒、藤波のスクールボーイで丸め込まれて赤恥を掻か

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新日本プロレスと国際プロレスの関係はこの年の4月に起きた剛竜馬の退団、渡米。6月9日、藤波が出場したロサンゼルス・オリンピック・オーデトリアムへの登場、新日本への参戦でさらに悪化。「第2のストロング小林騒動」と言われ法廷闘争になる勢いでした

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国際プロレスの吉原功社長とは懇意の中であり、ブレーンとして活躍、東京12チャンネルの「国際プロレスアワー」の解説をしていたフリーライターの菊池孝氏(2012年9月死去)は雑誌Gスピリッツにて以下のようなコメントをされています。菊池さん「吉原さんに言

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ところで、国際プロレスの吉原功社長は6年間という長きに亘って信頼関係を構築して来た馬場の全日本プロレスとの提携を解消してまで、馬場以上にシビアな猪木の新日本プロレスと手を組んだのか?国際が、全日本とのビジネスにおいてイニシアチブを取れず、マ

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国際プロレス日本リーグ争覇戦の最終戦は78年11月30日、千葉公園体育館(観衆4000人発表、テレビ収録)で行われました。優勝決定戦に駒を進めたのは国際のエース、ラッシャー木村と日系のプロフェッサー・タナカ。試合はタナカが持ち前のパワー&ラフファイトで

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国際プロレス日本リーグ争覇戦、決勝トーナメント準決勝は78年11月28日、鶴岡市体育館(テレビ収録)で行われています。準決勝第1試合は鶴田vsプロフェッサー・タナカの一戦。鶴田とタナカは74年1月の新春NWAシリーズ以来約4年10か月ぶりの対戦。タナカは

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国際プロレスの日本リーグ争覇戦決勝トーナメントは78年11月26日、久慈市民体育館でミスター・サクラダとプロフェッサー・タナカが対戦。タナカの凶器攻撃に怒ったサクラダが凶器を奪い取って反撃、さらに制止に入ったレフェリーにも暴行を加え、14分30秒にタ

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国際プロレスの蔵前大会は日本テレビの全日本プロレス中継の2日後、11月27日午後8時より東京12チャンネルの国際プロレスアワーで放送。メインイベントのラッシャー木村vsキム・ドクはきちんと放送されましたが、セミファイナルのマイティ井上vs鶴田戦は既に

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78年11月25日、国際プロレス日本リーグ争覇戦の蔵前国技館大会は新日本プロレスと全日本プロレスの所属選手が一度に同じリングに上がり、翌79年8月26日、日本武道館で開催された「プロレス夢のオールスター戦」より前に、当時現存していた男子3団体の選手が

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一方、国際プロレスの日本リーグ争覇戦は78年11月3日、大田原市民体育館で開幕。11月5日、後楽園ホールでのテレビ収録ではフリーとして凱旋帰国した元幕内力士、大ノ海の石川孝志がアニマル浜口と30分時間切れ引き分けの好試合を展開し、ファンやマスコミか

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78年11月17日、後楽園ホールで行われたプレ日本選手権開幕戦では、テレビ生中継に入る前に、公式戦としてストロング小林vs長州力の一戦が組まれました。言ってみればランキング戦、もしくは番付入れ換えマッチ。S小林は言わずと知れた元国際プロレスのエース

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