プロレスリング・ノアは03年末、翌04年7月10日に東京ドームヘ初進出することを発表。04年は年頭から2年連続日本武道館大会を1月10日に開催、新日本プロレスに奪われていたGHCタッグ王座は三沢光晴&小川良成組が永田裕志&棚橋弘至組を破って王座奪回に
00年代前半はプロレスリング・ノアにとっては躍進の時期であり、業界最大手の新日本プロレスが橋本真也、武藤敬司と言った90年代のドーム興行を成功させてきたスーパースター達が相次いで退団、橋本はZERO1を旗揚げし武藤は全日本プロレスに移籍して代表取締
プロレスリング・ノア、この02年はGHCヘビー級王者、秋山準が1月4日、新日本プロレスの東京ドーム大会に出場、永田裕志を破り王座防衛に成功。新日本東京ドームのメインを他団体の看板ベルトのタイトルマッチで締めたのはこれが初。 2月17日、日本武道
プロレスリング・ノアは4月に新設したGHCヘビー級王座に続き、6月にはGHCジュニア・ヘビー級王座を新設、6月24日、愛知県体育館で初代王座決定トーナメント決勝戦が行われ、金丸義信がフベントゥ・ゲレーラを破り、初代王者となりました。7月27日に
プロレスリング・ノアは三沢光晴以下全日本プロレスの元所属選手がほとんど集結しており、四天王プロレスに熱狂していた全日本プロレスのファンがそのまま移行、新団体としては順調過ぎる程の船出をしています。00年12月23日には有明コロシアムに12,000人発表
馬場の死後、全日本プロレスの代表取締役となった三沢光晴は、オーナーである馬場元子未亡人との意見の相違から00年5月28日、全日本後楽園ホール大会の試合前に代表取締役を解任されてしまい、「スーパー・パワー・シリーズ」最終戦、6月9日の日本武道館大
68年10月28日、埼玉県川口市出身の尾崎魔弓は50歳と10か月でOZアカデミー認定無差別級王座と爆女王の二冠王になりました。同年代のダイナマイト・関西、豊田真奈美が引退していく中、アジャ・コング、KAORU、大御所ジャガー横田、ディアナ勢の井上京子
OZアカデミーは19年にも8月25日に3年連続で横浜文化体育館大会でビッグマッチ「プラムの花咲くOZの国2019 YOKOHAMA Shining Space」(観衆2,137人発表)を開催。メインイベントはOZアカデミー認定無差別級王者、尾崎魔弓vs爆女王、松本浩代の有刺鉄線電
18年9月17日、OZアカデミー横浜文化体育館大会「横浜花魁道中」(観衆2,091人発表)が開催されています。前年の3,789人からは大幅ダウンとなりましたが、これは豊田真奈美引退効果があったからでしょう。メインイベントはOZアカデミー認定無差別級選手権試
OZアカデミーは16年には86年8月17日に行われたジャパン女子プロレス旗揚げ興行後楽園ホール大会でデビューした尾崎魔弓、ダイナマイト・関西、及び全日本女子プロレスでデビューしたアジャ・コングのデビュー30周年記念興行をそれぞれ行いましたが、横浜文
15年8月23日、横浜文化体育館OZアカデミープラム麻里子追悼興行「プラムの花咲くOZの国2015 YOKOHAMA DREAM PARKS3」(観衆2,025人発表)が行われています。OZにとっては2年ぶりの横浜文体大会となりました。OZアカデミー無差別級王座はAKINO→
13年9月15日、OZアカデミー横浜文化体育館大会「YOKOHAMA DREAMS PARK2」(観客2,350人発表)が開催されています。メインイベントはOZアカデミー認定無差別級選手権試合、王者AKINO(フリー)に浜田文子(WAVE)が挑戦。本連載でも何度か書いていま
東日本大震災の起きた11年夏の8月21日、OZアカデミーは7年ぶりに横浜文化体育館に進出。OZは、97年8月16日、前日のJWP広島アステールプラザにおいて尾崎魔弓のライガーボムを喰らって試合後に意識不明となり急性硬下膜出血及び脳挫傷の為29歳の若さ
尾崎魔弓が代表を務めるOZアカデミーは、団体化されたのは06年の話ですが、それより遡ること10年前の96年、尾崎が所属していたJWPと親密関係にあったガイアジャパンの佐藤季恵(シュガー)、永島千佳世が尾崎に「弟子入り」を直訴。JWPで尾崎の付き人を
この連載では何度も書いておりますが、97年8月に表面化した女子プロレス団体の老舗であり業界最大手だった全日本女子プロレスの経営悪化から、離脱した選手、フロントにより2つの団体が98年年頭に相次いで旗揚げしています。先行して1月9日に後楽園ホール
「吉本にだって、プロレスは出来る」をキャッチコピーとして95年に関西の芸能業界最大手の吉本興業が女子プロレス事業に進出。バンプレスト、関西テレビの支援を得て「吉本女子プロレスJd’」を設立。全日本女子プロレス、JWP、LLPW、ガイアジャパン
04年のガイアジャパンは横浜文化体育館での興行はなく、毎年4月に行われる旗揚げ周年興行(9周年)は4月30日、初使用となる国立代々木競技場第二体育館(観衆3,200人発表)で行われ、長与千種&ライオネス飛鳥組のクラッシュ2000がシュガー佐藤&永島千佳世組
2002年12月15日、ガイアジャパン後楽園ホール大会で行われたAAAWシングル王座次期挑戦者決定戦、山田敏代とシュガー佐藤の一戦は若さとパワーでS佐藤が圧倒的に有利かと思われましたが、クイック・ゴリースペシャルボムで山田が逆転勝ち。全日本女子プロ
フリーのベテラン選手が幅を利かせるガイアジャパンのリングでしたが、世代交代は確実に行われています。団体の看板タイトルであるAAAWシングル王座は01年12月15日、川崎市体育館でアジャ・コングから里村明衣子に移動。02年6月2日、後楽園ホールでは昼
ガイアジャパンは01年は横浜文化体育館での興行開催はなし。例年4月の旗揚げ月に開催されていた周年記念興行は4月29日、川崎市体育館で行われ、メインイベントで里村明衣子に敗れた北斗晶がオーバーホールを理由に無期限の休養宣言。この日、長与千種は尾崎
ライオネス飛鳥が長与千種に敗れたことで飛鳥率いるSSUは事実上解体となり、ガイアジャパンのリングは北斗晶がリーダーとなっていたチーム・ノストラダムスがヒールサイド軍団としての実権を握りました。99年度の最終興行、12月27日後楽園ホールのメインイ
99年4月4日、横浜文化体育館で長与千種を火炎攻撃を使った反則を混ぜながらも最後は得意のタワーハッカーボムで破ったライオネス飛鳥率いるヒールユニット「SSU」がガイアジャパンのマッチメークの全権を握りました。5月18日、後楽園ホールでは長与はア
97年10月に全日本女子プロレスが取引金融機関から2度の不渡り手形を出して銀行取引停止処分を受け、事実上の倒産、フジテレビからの放映権料で何とか経営を継続、また全女の給料未払などによる処遇悪化から選手が大量離脱、98年1〜2月にかけて全女から分裂
ライオネス飛鳥とのクラッシュ・ギャルズで一世を風靡したカリスマ、長与千種が94年8月25日に設立記者会見を行ったのが新団体「GAEA JAPAN」(以下ガイアジャパン表記)。長与は89年5月6日、全日本女子プロレス横浜アリーナ大会で引退試合を行い、その後は女
ジャパン女子プロレスが分裂して出来たもうひとつの後継団体、LLPW(レディース・レジェンド・プロレスリング)。JWPが「PURE−HEART PURE−WRESTLING」を売りにしていたのに対し、LLPWは「女子プロレス最強の男」神取忍がエースとして君臨していた
97年8月15日、JWP広島アステールプラザで行われたプラム麻里子&コマンド・ボリショイ組と尾崎魔弓&天野理恵子組の試合で、尾崎のライガーボムを食らってフォール負けしたプラムは後頭部を強打して動けなくなってしまい、救急車で広島市内の病院に搬送さ
96年初のJWP横浜文化体育館大会は4月7日、「THE HIT MAKER」開幕戦の特別興行「THUNDER QUEEN横浜 LIGHT UP NIGHT」(テレビ収録、観衆4,300人満員発表)として開催されました。女子プロレス界も対抗戦ブームが下火となり、同じ満員発表でも前回の4,950人
JWPは後楽園ホールをビッグマッチの中心に据え、堅実に観客動員数を伸ばして来ました。94年には前93年全日本女子プロレスのオールスター戦で4年ぶりに復帰を果たした長与千種がフリーで凖レギュラー参戦。全女時代に師弟関係にあったデビル雅美の存在があ
68年に日本女子プロレスから分裂して創立された全日本女子プロレスは、70年に日本女子プロレスが活動休止してからしばらくは女子プロレスを独占市場化していました。74年9月に国際プロレスが東京12チャンネルのレギュラー放送開始に合わせて日本女子プロレス
96年3月31日、全日本女子プロレス横浜アリーナ大会で「咲ちゃん」としてファンに愛された長谷川咲恵が引退、代表一族である松永兄弟は「夢よ再び」とばかり豊田真奈美、吉田万里子、伊藤薫、玉田りえ、府川由美の「d−POWER」というユニットによる「LEGEND O