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2021年02月25日22:27

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週プロ流智美あの日あの時予想2020年総括(50)

第166戦 12月25日発売号●【予想】昭和巌流島の決闘、日本選手権試合、力道山vs木村政彦(54年12月22日蔵前国技館)【正解】ダイナマイト・キッド、前代未聞の2団体ダブルブッキング(79年)【参考】2015年12月22日発売号は格闘技世界一決定戦、高田延彦vsトレーバー・バービック(91年12月22日UWFインターナショナル両国国技館)

【解説】この週の水曜日は12月23日、平成の30年間は天皇誕生日に該当し週プロの発売がありませんでしたが令和に移行し平日に。発売日の変更も含めて予想していなければならないという状況が発生しました。

翌週は年末30日になってしまうことから、年末年始合併号となる訳ですが、20年は12月21日〜23日まで業界最大手の新日本プロレスが「Rord to TOKYO DOME」後楽園ホール大会3連戦を開催。やはり「週刊新日本プロレス&スターダム」、「週刊ブシロード」である現在の週プロで、21年1月4日&5日、年始の東京ドーム2連戦ヘの重要な前哨戦となる後楽園3連戦を入れない訳にはいかず、発売日を25日金曜日に後ろ倒し。これは商業誌としては賢明な選択です。

昭和の12月25日というのは本当に材料に乏しく、2013年12月25日発売号で85年テキサス州ダラスでの猪木vsスティーブ・ウイリアムスの初対決を採り上げていますが2巡目の19年12月25日発売号では90年12月26日、新日本プロレス浜松アリーナでの蝶野正洋vsルー・テーズの一戦について書かれており、やはりここは日付変更不可避と判断、日本プロレス史70年の出来事の中から、話題性、歴史的価値、今尚語り継がれているという点でこの話題に勝るものなしと力道山vs木村政彦、昭和巌流島の決闘を予想しました。

54年2月19日〜21日の蔵前国技館3連戦で幕を明けたベン&マイクのシャープ兄弟を招いての日本初のプロレス国際試合は大盛況に終わりましたが、同年11月、力道山のパートナーを務めた「鬼の木村」、「木村の後に木村なし」と言われた木村政彦が力道山に挑戦を表明。「力道山のプロレスはジェスチャーの多いショーだ。私は負け役をやってきたが真剣勝負では力道山には負けない、挑戦を受けろ」とアピール。力道山はこれを受諾し、11月27日、力道山主演映画「力道山怒濤の男」を撮影していた松竹大船撮影所で調印式が行われました。

試合は日本重量級選手権試合、61分3本勝負。レフェリーはハロルド登喜、1本目は静かな立ち上がりとなりましたが木村の蹴りが力道山の太腿の付け根にチョコンと入りました。そこから展開が一変、力道山は激怒していきなり張り手を木村の顔面に叩き込み、不意を付かれた木村はダウン。ダウンした木村の顔面に力道山はリングシューズで蹴りを入れていきました。

木村は戦意喪失してダウン、15分49秒、レフェリーストップで力道山が勝ち、2本目は試合放棄で2−0で力道山がストレート勝ちとなっています。

謎の多い試合として知られていますが、何故あのような凄惨な結末に終わってしまったかというと、力道山のプロレスをショーだと表向きには批判していた木村が裏では力道山との3連戦を行い、お互いに儲けようと提案、力道山は提案を飲んだふりをして木村をリングに上げて急所を蹴ったと揚げ足を取り騙し討ちのように潰してしまったということのようです。

背景には「ショー、負け役」と言ったプロレス八百長論を木村が言い出したことに対する制裁の意味とプロレスで世界を狙う力道山が木村と同格であってはならないという意識があったからだと思います。格闘家としての木村が弱い訳がなく、真剣勝負で闘えばおそらく力道山を裸絞めや後にキムラロックと言われた腕絡みで決めてしまうことは容易だったと思いますが、力道山を信用してリングに上がった木村は仕掛けられるとは考えておらず、無防備状態でいきなりナマの張り手を食らって気がついたら負けていた感じではなかったでしょうか?

18年12月5日、自身の60歳の誕生日当日に亡くなった「爆弾小僧」ダイナマイト・キッド。晩年はステロイドの過剰摂取による障害、87年にカナダでの試合中に起きた背骨骨折のアクシデントの後遺症になやまされ、歩くこともままならない状態でしたが、キッドに憧れてプロレス入りした選手は日本、外国を問わず多数おり、紛れもなく一時代を築いたカリスマ的なスーパースターでした。

キッドの初来日は79年7月の国際プロレス「ビッグ・サマー・シリーズ」後半戦特別参加。カルガリー在住の大剛鉄之介のブッキングで、弱冠20歳。来日第1戦は7月19日、北海道・木古内町公民館。ベテラン寺西勇と20分時間切れ引き分け。20日、大館市民体育館で阿修羅・原のWWU世界ジュニア・ヘビー級王座に挑戦し13分7秒、両者リングアウトとなりました。

結果に納得がいかない両者は21日、村上市民会館で原のWWU世界ジュニア・ヘビー級、キッドの英連邦ジュニア・ヘビー級王座を賭けてのダブルタイトルマッチ、ヨーロッパスタイルの4分7ラウンドで再戦しましたがフルラウンド闘って時間切れ引き分け。シリーズ最終戦の7月25日、三島市民体育館で原とキッドはノンタイトル45分3本勝負で対戦、1−1からの3本目、原がブロックバスター(サモアン・スープレックス)からの体固めでキッドにようやく勝利。ファン、関係者の評価は高く、早く再来日を希望する声が上がりました。

それから1か月後の8月17日には猪木、坂口征二、藤波辰巳の新日本プロレス勢がキッドの主戦場であったカルガリー・スタンビート・パビリオンの大会に遠征して来ました。キッドは藤波とWWFジュニア・ヘビー級、英連邦ジュニア・ヘビー級のダブル・タイトルマッチで対戦、20分33秒、両者リングアウトの引き分けとなりましたが、この大会は10月17日にテレビ朝日「水曜スペシャル」で放送されています。

同年暮れ、80年の国際プロレス「新春パイオニア・シリーズ」と新日本プロレス「新春黄金シリーズ」両団体がキッドの参戦を発表。興行用ポスターにも写真が載り、「キッドはどちらの団体に来日するのだろう?」とファンを困惑させてしまいました。

しかし、この手の争奪戦で国際が勝ったことは過去に一度もなく、キッドは1月4日、後楽園ホールで開幕の新春黄金シリーズに来日しています。8月にカルガリーに新日本プロレス勢が遠征に行った際、随行していた新間寿営業本部長がプロモーターのスチュ・ハートに好条件を呈示、日本でのビジネスパートナーを国際から新日本に変えるよう商談が成立していました。

キッドは大剛を通して国際に再来日する約束はしていましたが、スチュの息子達であるハート兄弟のコーチをしていたミスター・ヒトがキッドを横取りする形で新日本プロレスへブッキング。同じカルガリーでレスラーを日本にブッキングすることを仕事としていた大剛とヒトは不仲であり、両者の争いでもあった訳です。

ただしこれは12月25日に起きた出来事ではなく、興行用ポスターなどはもっと早くから市中に出廻るものでありいささかこじつけと言えます。

20年は年間成績が9勝41敗で19年の8勝を1つだけ上回ったにとどまりました。2巡目に入り、試合以外の材料が増え、ソースもベースボールマガジン社のバックナンバーから当時のスポーツ紙中心に移行してきていますが、今年21年も続けて予想していきますので、引き続きTwitterのチェックをよろしくお願い致します。

※対戦成績は166戦33勝133敗、勝率199。

          (完)
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