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2020年10月24日00:55

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ありがとう!横浜文化体育館(45)

96年5月26日、横浜文化体育館大会以降のWARは大幅な動きがありました。9月11日、UWFインターナショナルの神宮球場大会に天龍が参戦、高田延彦とシングル初対戦、腕ひしぎ逆十字固めでギブアップ負け。(同年12月13日、WAR両国国技館での再戦は天龍がパワーボムでフォール勝ちしリベンジ成功)

この日、全日本プロレスの川田利明の参戦が大会直前になり決定、高山善廣を破っていますが、天龍と川田の6年半ぶりの再会が控室であったかどうかは報じられていない為、不明です。

10月11日には大阪府立体育会館で天龍vsグレート・ムタ戦が行われ、87年に新装なって以来記録となる9,100人(超満員札止め発表)の大観衆を集め天龍が勝利を収めました。

10月28日、後楽園ホール大会を最後に団体内ヒールユニットとしてWARを活性化させてきた冬木弘道、邪道、外道の冬木軍が離脱。

冬木軍、石川隆志(敬士)率いる東京プロレスらが中心となり、石川のスポンサーで東京プロレスのオーナーだったバイク便会社経営の石澤広太郎が代表となりFFF(インディー統一機構)が発足。当時、IWAジャパンの外国人ブッカーをしていた佐藤昭雄が外国人招聘窓口となり、安生洋二、高山、山本健一のUインターのゴールデンカップス、IWAジャパンを離脱したターザン後藤、ミスター雁之助、フライングキッド市原の真FMW、ザ・グレート・カブキ、栗栖正伸、奥村茂雄(OKUMURA)らが名を連ね、インディーズマットの一大勢力となる予定でした。 

しかし、97年1月にオーナーの石澤のバイク便の会社が業績不振に陥ったことから旗揚げ興行を行うことなく頓挫してしまいました。

冬木軍と真FMWのうち雁之助、市原はFMWに参戦(大仁田厚に対して胸に一物あるT後藤は雁之助、市原とは行動を共にせず)、安生達は96年12月27日、後楽園ホール大会を最後に活動休止したUインターの後継団体として97年5月に旗揚げしたキングダムに参戦、カブキはIWAジャパンにUターンしました。石川は新東京プロレス→石川一家としてフリーランサーとして活動していきます。

WAR最後の横浜文化体育館大会は97年11月24日、「CHAMPION OF R」(観衆3,510人発表)満員マークはつかず、メインイベントは新設された日本J1王座決定トーナメント、天龍vs藤原喜明、待望のシングル初対決。天龍と藤原は92年10月4日、藤原組東京ドーム大会で実現予定でしたが諸事情で流れ、今回が初対決。私はこの興行は会場観戦しました。

東スポプロレス大賞授賞式のパーティーで酒を飲んで頭突き合戦をしたというエピソードはよく知られており互いを認めあっている仲。

日本J1王座はテレビ東京の人気番組「開運!なんでも鑑定団」の中で視聴者が出品した力道山が54年12月22日、蔵前国技館での木村政彦戦で使用した日本選手権のベルト(1,200万円の値段がついた)を所有者から借り受けて作ったタイトルで、ある意味、インターナショナル王座に匹敵する価値あるベルトと言えました。

藤原は得意のグラウンドに天龍を引き込みにいきましたが決めきれず、15分47秒、天龍が藤原の喉笛に強烈なチョップを打ち込み、片エビ固めで強引に押さえ込み、3カウントが入り天龍の勝利。

試合後天龍は「ワキ固めを警戒すればアキレス腱固めに来る、巧くてしぶとい、やりにくかったが最後はチョップで押さえに来るとは藤原も思っていなかったんじゃ無いかな?」と藤原の強さを認めながらも、最後の強引な押さえ込みが作戦勝ちであったとアピールしました。

セミファイナルは北原光騎&嵐&菊地淳組と平井伸和&望月成晃&多留嘉一(TARU)組の一戦、後に全日本プロレスで事件となる平井と多留がタッグを組んでいるのが興味深いです。試合は24分12秒、平井がドリルアホール・パイルドライバーからの片エビ固めで菊地を破りました。

空位となっていたIJタッグ王座決定リーグ戦が開催され、レッスル夢ファクトリー代表の福田雅一&小坪弘良(ツボ原人)組がWAR代表後の安良岡裕二&石井智宏組を撃破。フィニッシュは福田のジャーマン・スープレックスホールドが石井に決まりました。

黒い呪術師アブドーラ・ザ・ブッチャーがWARに登場、荒谷信孝と対戦、ブッチャーは96年4月に石川の東京プロレスに誘われて2度目の全日本プロレス離脱、東京プロレスでは初代タイガーマスクや高田とも対戦しましたが、東京プロレス活動休止によりWARのリングに参戦してきました。10分26秒、レフェリー暴行によりブッチャーの反則負けとなりました。

この日は全日本女子プロレスによる提供試合が組まれました。風間ルミ、神取忍のLLPWとは提携していましたが、全女勢の参戦は初。豊田真奈美&井上貴子組とデビュー2年目の「ナナモモ」中西百重&高橋奈苗組が対戦、13分43秒、貴子が中西をディステニー・ハンマー(コーナーポスト最上段からの延髄ニー)からの片エビ固めで降し、豊田&貴子組の勝利。

WARは経営不振から翌98年1月14日、後楽園ホール大会を最後に所属全選手の解雇を発表、以後は選手を抱えない興行会社になりました。天龍はこの年7〜8月の新日本プロレスG1クライマックスに初参戦、9月27日には後楽園ホールを昼夜使ってのLLPWとの合同興行による男女混合ワンデータッグトーナメントを開催。

99年には天龍は5月3日、新日本の福岡国際センターで武藤敬司のIWGPヘビー級王座に挑戦、この時は敗れましたが、12月10日、大阪府立体育会館では武藤に勝って最年長49歳10か月のIWGPヘビー級王座戴冠を果たしています。

その一方でインディーズの「喧嘩プロレス二瓶組」の二瓶一将組長に興行を買ってもらい、WARのリングでヨカタの二瓶組長が天龍と組んで試合に出るなど、業界の頂点から底辺まで仕事を選ばず働きました。

しかし、それだけ頑張っても事態は好転せず、00年に活動休止に至りました。天龍は三沢光晴以下ノア勢による選手大量離脱で窮地に陥った全日本プロレスに10年ぶりに復帰が決まりました。

SWSから派生したもう一つの団体、NOWは横浜文体大会を開催することなく活動休止、ケンドー・ナガサキ、谷口裕一、山川征二(竜司)ら残党メンバーでグレート小鹿を社長に据えて95年3月に大日本プロレスを旗揚げ。大日本プロレスはSWSの血を引く「孫団体」となる訳ですが(現代表取締役の登坂栄児はSWSでプロレス団体のフロントとしてのキャリアをスタートさせて、崩壊前のNOWでは社長に就任している)、大日本プロレスと横浜文体の繋がりは他の団体と比べると格段に強いところから、大日本プロレス編はこの日記の最後に持ってくることに致します。
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