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2020年10月20日21:37

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ありがとう!横浜文化体育館(42)

90年10月18、19日の両日に亘って横浜アリーナで旗揚げ興行を行ったメガネスーパーが設立したSWS。今年20年は旗揚げから30年の節目の年となりました。プロレスが大好きだった田中八郎社長は前89年11月29日、新生UWFの東京ドーム大会「U-COSMOS」を冠スポンサーとしてスポンサード。自分でプロレス団体を持ちたいという野望を持ちました。

田中社長は新日本プロレスの武藤敬司に食指を伸ばしましたが、坂口征二社長の機転でこれを阻止され、全日本プロレスの天龍に声をかけ、全日本内での立場や処遇面に不満と悩みを抱えていた天龍は移籍を決意。90年4月26日、馬場との話し合いにより「円満退社」。

当時、発行部数が公称40万部と言われていた週刊プロレスのターザン山本編集長が馬場側につき、「天龍は金で動いた」と誌面を通して激しいバッシングを展開、ターザンの影響を受けていた「活字プロレス」信奉者、いわゆるターザンチルドレンが全日本プロレスの応援に廻った為、SWSは旗揚げ前に早くもイメージに傷がついてしまいました。

SWSへは全日本プロレスから天龍、ザ・グレート・カブキ、谷津嘉章、サムソン冬木(弘道)、高野俊二(拳磁)、仲野信市、高木功(2代目嵐)、北原光騎、折原昌夫、フリー参戦の鶴見五郎、レフェリーの海野宏之(レッドシューズ)らが移籍。天龍と入門してすぐに天龍の付き人となった折原、海野レフェリー以外は皆、外様でした。また、88年末に輪島大士と共に引退を表明し全日本プロレスを退団した石川敬士もSWS入り。

新日本プロレスからはジョージ高野、佐野直喜(友飛、なおき、巧真)に加え、89年3月末で新日本プロレスを退団したドン荒川、フリー参戦していたケンドー・ナガサキ、ストロング・マシン軍団解散後はアンドレ・ザ・ジャイアント、マッド・マックス、海賊男ザ・ガスパーズのマネージャーをしていましたが、新日本プロレスとの契約が切れると真っ先にSWSへ入り、レスラー勧誘に動いていたショーグン・KYワカマツなどが参加しました。新日本プロレスの方かダメージは少なかったです。

旗揚げ興行を前に9月29日、天龍の地元である福井市体育館でプレ旗揚げ戦を実施、プロレス界初の部屋別制度を導入、天龍率いる「レボリューション」、G高野の「パライストラ」、ワカマツの「道場・激」と3つの道場に別れました。当時としては画期的と言えましたが、逆に分裂を早める結果にもなっていたと思います。

外国人ブッキングにおいてはギャラの高騰で新日本プロレス、全日本プロレスが手が出せなくなっていたWWFと提携、ハルク・ホーガン、ジ・アンダーテイカー、リージョン・オブ・ドゥーム(ザ・ロード・ウォリアーズ)らスーパースターを招聘、91年には3月30日と12月12日の2度に亘り東京ドーム大会を開催。

週刊プロレスに掲載された91年3月の東京ドーム大会の広告に瑕疵があったとしてSWSは週刊プロレスを取材拒否しています。

50億円と言われた巨額の資本をつぎ込んだSWSは週刊プロレスからは「金権プロレス」と叩かれ、また寄せ集め世帯の虚しさで内部統制が取れず、徐々に体力を失っていきました。

SWSの横浜文化体育館大会は92年4月17日に「BATTLE MESSAGE」シリーズで1度だけ行われました。(観衆3,960人発表)

WWF世界ヘビー級王者としてリック・フレアーが来日、前91年3月21日には新日本プロレスの東京ドーム大会にNWA世界ヘビー級王者として来日しているフレアーでしたが、フレアーの他、ホーガン、ランディ・サベージ等のスーパースター達はNWAの後継組織となったWCWとWWFを条件により行ったり来たりして巨額のファイトマネーを稼いでいた訳です。

翌4月18日には東京体育館でフレアーと天龍がWWF世界ヘビー級王座を賭けて対戦が決まっており、この日はノンタイトルの前哨戦で対戦。(60分1本勝負)20分54秒、バックドロップからの片エビ固めでフレアーが前哨戦を制しました。

翌日の東京体育館でのタイトルマッチ本番は60分3本勝負で行われ、1−1からの3本目、天龍が反則勝ちで勝利を収めたものの、ベルトの移動はなし。スコアの上では1勝1敗とイーブンに終わりました。

セミファイナルはG高野&高野俊が保持していたSWSタッグ王座にアースクェイク・ジョン・テンタ&タイフーン組のザ・ナチュラル・ディザスターズが挑戦、15分59秒、テンタが高野俊をダイビング・ヒッププレスからの体固めで破り王座移動。ナチュラル・ディザスターズが新王者に。 

88年11月19日、全日本プロレス足利市民体育館大会で金銭トラブルを理由に馬場から解雇され、公の場にしばらく出て来なかった阿修羅・原はかつての盟友、天龍の呼びかけに応じて91年8月4日、SWSの長岡市厚生会館(現アオーレ長岡)で復帰をしましたが、この日はセミ前に出場、谷津とシングルで対戦、11分3秒にヒットマン・ラリアットからの片エビ固めでフォール勝ち。

SWSジュニア・ヘビー級王者佐野はチャボ・ゲレロと防衛戦を行い、12分6秒、ウラカン・ラナ(高角度前方回転エビ固め)でフォール勝ちし王座防衛を果たしました。

前述のようにSWSは内部統制が上手くいかず、同年5月にはG高野の「パライストラ」とワカマツに代わり谷津が道場主を務めていた「道場・激」が統合されましたがそれでも上手くいかず、5月25日全日空ホテルでの記者会見で田中八郎氏に代わりSWSの社長になっていた天龍は団体の解散を発表。6月19日の長崎国際体育館大会が最後の興行になりました。

天龍のレボリューションはWARにナガサキ、G高野のパライストラ&道場・激連合はNOWへと団体が枝分かれ、田中オーナーは両団体に当面の運転資金を拠出してプロレス界から撤退しています。(G高野、高野俊の高野兄弟はNOW旗揚げ前に離脱)

巨額資金を投じたSWSでしたが、メガネスーパーマネーで甘い汁を吸おうと思ったレスラーは多く、また田中オーナーがプロレス界の仕組みをよく知らなかったが故に「ケーフェイ」を知らず、現場の人間にいいようにやられてしまった感はあります。

SWSを「企業プロレス」と言いますが、実際はただ金を出していただけであり、何のガバナンスも機能しておらず、そう言った意味では巨大過ぎるタニマチにしか過ぎなかったと私は思います。「金のかけどころを間違えた」というのが本当のところかと…。

ですがSWSの参入が後にユークスやブシロード、サイバーエージェントグループの反面教師となったことは事実ですし、プロレスに大きな理解と愛情を注いだ田中八郎氏の功績は高く評価すべきことです。

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