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2020年09月26日01:31

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ありがとう!横浜文化体育館(17)

平成に入って最初の全日本プロレス「チャンピオン・カーニバル」89年4月4日、横浜文化体育館(テレビ収録、観衆4,250人発表)大会。

メインイベントは鶴田&谷津嘉章組の五輪コンビが保持する世界タッグ王座に天龍&スタン・ハンセンの「龍艦砲」が挑戦。前88年11月19日、栃木・足利市民総合体育館での「世界最強タッグ決定リーグ戦」開幕戦の控室で馬場が記者会見を行い、阿修羅・原を「金銭面での問題から」解雇したことを発表。原は天龍と組んでリーグ戦に参加予定でしたが、代わりに川田利明が天龍のパートナーに抜擢されました。

また88年6月10日、日本武道館でインターナショナル・タッグ王者チーム、アニマル&ホークのザ・ロード・ウォリアーズとPWF世界タッグ王者チームの鶴田&谷津組が王座統一戦を行い、反則勝ちながら鶴田&谷津組が勝利を収め、両王座を統一、初代世界タッグ王者チームとなりました。シングルの三冠よりも先にタッグのベルトの方が統一が早かったです。

新日本プロレスの項でも書きましたが、新生UWFが実力主義、完全決着方針でファンの支持を得た為、新日本プロレスも全日本プロレスもリング上から両者リングアウト、両者反則などの不透明決着を排除することになりました。その代わり、全日本プロレスも王座移動が頻繁に行われることに。

世界タッグ王座は鶴田&谷津組→ハンセン&テリー・ゴディ組→鶴田&谷津組→天龍&原組→鶴田&谷津組と僅か2かの間に移動。またこの年から「世界最強タッグ決定リーグ戦」の為に、その時点での世界タッグ王者チームはベルトを返上してリーグ戦に参加しなければならないというルールが出来た為、世界タッグ王者はリーグ戦の前には防衛記録がストップすることになります。

88年12月16日、日本武道館で行われた優勝戦、最終公式戦でハンセン&ゴディ組が天龍&川田組を破って優勝、89年2月2日にはカンザス州カンザスシティ・メモリアルホールで鶴田&谷津組がハンセン&ゴディ組に勝ち王座獲得と目まぐるしくベルトが移動。

また88年12月末には輪島大士、石川敬士の2人が全日本プロレスを退団しています。

天龍は最良のパートナーであった原を失い、川田ではまだ鶴田&谷津に太刀打ち出来ぬとハンセンとのタッグを結成し、この日のタイトルマッチに臨みました。ハンセンが谷津を押さえて天龍がロープ際でラリアット、しかし勢いづいた天龍はロープ越しに場外へ落ちてしまいました。

そこへ入ってきたのが鶴田。天龍を鉄柱に叩きつけて倒し、救援に入ったハンセンと乱闘している間に場外カウントが進みリング上でダウンしていた試合権利のある谷津が27分28秒、リングアウト勝ち。五輪コンビが初防衛を果たしていますが「試合に勝って勝負に負けた」試合でした。  

また、この日、馬場&ラッシャー木村&百田光雄のファミリー軍団が初結成され、仲野信市&高木功(嵐)&田上明組と対戦し13分11秒、百田が田上をエビ固めでフォールしています。

世界タッグ王座戦から14日後の4月18日には大田区体育館でインターナショナル・ヘビー級王者、鶴田と前88年7月27日、長野市民体育館で天龍にリングアウト勝ちしUN、PWF両ヘビー級王座を奪還したハンセンが三冠統一戦で対戦し鶴田が17分53秒、エビ固めで勝ち初代三冠ヘビー級王者となりました。

三冠王者となった鶴田はシリーズ最終戦の4月20日、大阪府立体育会館で天龍を破り初防衛に成功しますが、6月5日、日本武道館で天龍のパワーボムに敗れ王座転落。第2代王者の天龍は谷津、ゴディと防衛し、秋の「ジャイアント・シリーズ」10月11日、横浜文体(テレビ収録、観衆5,200人超満員発表)で前王者、鶴田の挑戦を受け、1年ぶりに横浜文体で鶴龍対決が実現しました。

試合は22分38秒、鶴田が巨体に似合わぬウラカン・ラナ(後にスコット・スタイナーが新日本プロレスで公開したフランケン・シュタイナーに近い)からのエビ固めで天龍を丸め込んでカウント3。鶴田が三冠ヘビー級王座奪回を果たしています。

ハンセンは川田と組んで谷津&ジャパンプロレス、カルガリー・ハリケーンズ分裂騒動の時にはアメリカに遠征中で、88年2月に凱旋帰国し全日本所属となった高野俊二組と対戦しハンセンが高野をラリアットから体固めでフォール。

ダグ・ファーナス&ダニー・クロファット組の「カンナム・エキスプレス」は6月5日、日本武道館で川田&サムソン冬木組の「フットルース」を破りアジア・タッグ王座を獲得していましたがこの日はジョー・マレンコ&小橋健太組と防衛戦を行い22分30秒にクロファットがジョーをエビ固めでフォールし防衛に成功。小橋はまだデビュー2年目でしたが、この年の3月27日、後楽園ホールでは馬場と組んでフットルースのアジア・タッグ王座に挑戦。7月15日、後楽園ホールではメインイベントで鶴田と組んで天龍&ハンセン組の龍艦砲と対戦、いずれも敗れていますがチャンスを与えられています。

90年2月10日の新日本プロレス東京ドーム大会に馬場は鶴田、谷津、天龍、タイガーマスク、ハンセンの5選手を参戦させ、4月13日、東京ドームではWWF、全日本、新日本による「日米レスリングサミット」が実現。全日本、新日本の雪解けムードが高まりプロレスファンにとっては夢の時代が到来。

90年最初の横浜文体大会は4月19日「チャンピオン・カーニバル」最終戦(テレビ収録、観衆4,900人満員発表)大会。メインイベントは鶴田の三冠ヘビー級王座に天龍が挑戦。試合前に天龍は週刊ゴングの担当記者だった小佐野景浩に「ジャンボに負けたら、俺は辞める」と漏らしていたそうです。 

3月6日、日本武道館でゴディ&新日本プロレスからドーム大会に選手を貸し出した見返りとして円満トレードされたスティーブ・ウィリアムス組に敗れ、世界タッグ王座から転落した天龍&ハンセンの龍艦砲でしたが、ハンセンが足を負傷して負けた天龍を襲撃し、仲間割れ。
 
試合前に仲間割れしたハンセンが天龍を襲うハプニングはありましたが、シリーズ中に天龍同盟を解散してモチベーションが低下していた天龍は覇気のない試合を展開、12分32秒、鶴田のバックドロップ・ホールドの前にフォール負け。これまでの鶴龍対決の中では最短時間で決着がつきました。

セミファイナルは新世界タッグ王者チームとなったゴディ&ウィリアムス組がハンセン&新たにハンセンのパートナーに指名されたダニー・スパイビー組の挑戦を受けて20分53秒、ウィリアムスがスパイビーをオクラホマ・スタンピートからの片エビ固めで破り初防衛に成功。

天龍はシリーズ終了後、全日本プロレスを退団しメガネスーパーが設立した新団体SWSへ移籍を表明、時間差はありますが、谷津、ザ・グレート・カブキ、高野俊二、サムソン冬木、高木、仲野、鶴見五郎、新人の折原昌夫らが追随、全日本プロレスは選手大量離脱の危機に直面しました。

90年最後の横浜文体大会は11月25日「世界最強タッグ決定リーグ戦」(テレビ収録、観衆5,200人超満員発表)。私はこの興行は生観戦しています。

公式戦では馬場&新日本プロレスから円満移籍したアンドレ・ザ・ジャイアント組がブレイド・ブッチ・マスターズ&スカイウォーカー・ナイトロン組の「ランドオブ・ジャイアンツ」と対戦したまさに夢の2メートル対決。馬場209cm、アンドレ223cm、ランドオブ・ジャイアンツの2人はいずれも213cmと4人の中で馬場が一番身長が低いと言う史上初の組み合わせ。

試合は10分38秒、アンドレがマスターズをエルボードロップからの体固めで降しています。

その他公式戦ではドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンク組のザ・ファンクスがダイナマイト・キッド&ジョニー・スミス組を破り、ジョニー・エース&小橋組はファーナス&クロファット組のカンナム・エキスプレスを降しました。

4月13日の東京ドーム大会で初結成された馬場&アンドレ組はお互い全盛期は過ぎていたものの、ファンの夢を乗せて活躍しましたが11月30日、帯広市総合体育館でのファンクス戦で馬場が左足大腿骨亀裂骨折の重傷を負い緊急入院。以後長期欠場となってしまいました。

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