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2020年09月18日22:51

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ありがとう!横浜文化体育館(10)

今年20年10月で旗揚げ満48年を迎える全日本プロレス、オーナーや運営会社が代わり馬場の「王道」は現在の全日本には残っていないと言っても過言ではありませんが「生き証人」として渕正信、和田京平名誉レフェリーがおり、威厳を保っていてくれています。

全日本プロレスの横浜文化体育館初進出は旗揚げから実に1年11か月後の74年9月25日、「ジャイアント・シリーズ」。新日本プロレスが旗揚げ後約1年で初使用しましたが、それからさらに1年近く遅い段階での初使用。理由はいろいろあるでしょうが、やはり日本プロレスが存在していた時代、崩壊後新日本プロレスとくっついた遠藤幸吉の地盤だったことは影響があったと思います。

また、全日本プロレスは日本テレビがプロボクシングの世界タイトルマッチの会場として日大講堂と包括契約を結んでいた為、日大講堂が安く借りられる好条件に恵まれており、横浜文体を使う必要性があまり無かったと考えられます。

全日本プロレスの横浜文体初進出は4,000人発表の観客を動員、メインイベントには馬場のPWFヘビー級王座にアブドーラ・ザ・ブッチャーが挑戦するという豪華カードをぶつけて来ました。(61分3本勝負)1本目は4分15秒にブッチャーがジャンピング・エルボードロップから体固め。2本目は6分22秒、馬場がカウンターの16文キックからの体固め。

決勝の3本目は5分2秒、ブッチャーのセコンドについていたジ・アベンジャー(ムース・モロウスキー)が馬場に手を出し、これを見ていた馬場のセコンドである鶴田、ザ・デストロイヤーも入ってきて応戦となり、両者反則の裁定がおりて1−1の引き分けで馬場が18度目の王座防衛に成功していますが、この横浜文体大会はノーテレビ、10月5日、日大講堂での同一カードによる二番勝負の初戦でした。

横浜文体大会セミファイナルはデストロイヤーと凱旋帰国のグレート小鹿がタッグを組み、アベンジャー&ブルー・デビル(インカ・ペルアーノ、ジョー・ソト)組を2−1で降しました。

日大講堂での再戦は1本目はブッチャーがジャンピング・エルボードロップで先制のフォールを奪ったものの、2本目は馬場がブッチャーの額を割って大流血に追い込みドクターストップ勝ち。3本目は出血多量となったブッチャーが試合放棄。2−1で馬場が壮絶な勝利を飾り19度目のPWFヘビー級王座防衛を果たしています。横浜文体大会は日大講堂の前哨戦であり、刺身のツマ的タイトルマッチでした。  

後に渕が語ったところによると馬場は猪木vsタイガー・ジェット・シンの試合に刺激を受けており、この日大講堂決戦で猪木vsシンより凄い試合をやってやろうと闘志を剥き出しにしていたとのことです。この年6月26日、新日本プロレスの大阪府立体育会館での猪木とシンのNWF世界ヘビー級選手権試合で、猪木がアームブリーカーでシンの右腕を骨折させた(とされる)試合は大きな反響があり、評判を聞いた馬場が、猪木に負けじとブッチャーを流血KOに追い込んだという訳です。

翌75年1月25日には「新春シリーズ」テレビ生中継の大会が行われ、3,900人発表の観客を集めています。メインイベントは馬場&サムソン・クツワダ組がハーリー・レイス&ジム・デュラン組と対戦、シリーズ最終戦の1月29日、東京体育館でPWFヘビー級王座を賭けて対戦する馬場とレイスがタッグで前哨戦。

1本目は7分38秒、クツワダがデュランをエビ固め。2本目は3分55秒、レイスが馬場を体固め。決勝の3本目は7分47秒、馬場がデュランを体固めに決めて、馬場&クツワダ組が2−1で勝利を飾っていますが、馬場はレイスに2本目を取られ、直接フォールは奪い返せず。

セミファイナルに組まれたのはアントン・へーシンクとカリプス・ハリケーン(サイクロン・ニグロ)の柔道ジャケットマッチ。

64年東京五輪柔道金メダリスト、オランダの国民的英雄へーシンクは日本テレビ「全日本プロレス中継」視聴率テコ入れの一環として73年に日本テレビ主導でプロレス転向、全日本プロレスヘ入団。しかしながら、アマチュアぽい動きとスピードのなさ、ぎこちない動きでファンからソッポを向かれ、対戦相手にも「レスリング・ベア(アメリカでプロレスラーと対戦させる為に調教された熊)とやっているみたいだ」と不評を買っており、プロレス転向して直ぐにお荷物扱いに。

柔道ジャケットマッチはそんなへーシンクを売り出す為に考えられた企画でした。横浜文体大会までにへーシンクはゴリラ・モンスーン(74年6月13日、東京体育館)、ドン・レオ・ジョナサン(同11月5日、大田区体育館)と2戦行い、へーシンクが袈裟固めで一本取って勝っていますが、相手に柔道の経験がないことやどうしても膠着することが多く、見ていて面白くは感じませんでした。

3戦目の相手となったのはへーシンクの日本デビュー戦を務めたハリケーン。(73年11月24日、蔵前国技館、馬場&へーシンク組vsブルーノ・サンマルチノ&ハリケーン組)覆面姿に柔道着というともはや梶原漫画の世界ですが…。試合は5分3ラウンド3本勝負で行われ、1、2ラウンドは時間切れ。

最終ラウンドとなった3ラウンド、これまでの展開にいらついたか、ハリケーンが着ていた柔道着を脱いでへーシンクの頭に被せ、ヘッドバットを連発し1分55秒に反則負け。呆気ない終わり方を見せました。柔道ジャケットマッチは不評だったと見え、この試合が最後になっています。

鶴田はセミ前に出場、国際プロレスから全日本プロレスに移籍してきた「赤毛の悪魔」レッド・バスチェンを14分48秒、ダブルアーム・スープレックスからの体固めで完勝。国際プロレス時代は、ストロング小林のIWA世界ヘビー級王座に計4回挑戦し1度は引き分け、ビル・ハワードとのコンビでIWA世界タッグ王座を獲得するなどトップの扱いだった実力者バスチェンも全日本プロレスでは中堅クラスの扱いでした。

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