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2020年05月28日21:26

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ジャンボ鶴田怪物伝説(621)

鶴田欠場となった85年ジャパンプロレス自主興行シリーズ第2弾「サマー・ドリーム・フェスティバル」8月5日、大阪城ホール(観衆7,900人発表)大会。鶴田欠場は当日まで発表されていなかったにも関わらず、長州力vs鶴田という切り札的なカード投入でも前売チケットが伸びず満員にはなりませんでした。

1週前の7月28日の日曜日には新日本プロレスが2度目の大阪城ホール大会を開催し、猪木vsブルーザー・ブロディの運命の対決第2弾をメインに、藤波vsジミー・スヌーカ、ザ・コブラvsヒロ斉藤のNWA世界、WWFジュニア・ヘビー級ダブルタイトルマッチという手薄になった陣容ながらも現時点で出来る総力をあげたラインナップで13,740人超満員発表の観客を動員しました。

ジャパンの大会は月曜日ということもありましたが、ジャパンと全日本プロレスの連合軍で半年間に4回も大阪城ホールでの興行を開催しており、徐々に観客動員も落ちて来ていたのは仕方なしかと思われます。

メインイベントでは観客投票によって決められた長州と谷津嘉章のシングル対決。長州と谷津は新日本プロレスでは谷津の国内デビュー戦(81年6月24日、蔵前国技館&猪木組vsスタン・ハンセン&アブドーラ・ザ・ブッチャー組)は同じリング(長州はIWGPアジア・ゾーン予選で木村健吾を破る)に上がった後は谷津は次のシリーズには参加せずアメリカに戻り、11月の「第2回MSGタッグ・リーグ戦」には両者はタッグを組んでの参加。

82年3月6日、大田区体育館での「第5回MSGシリーズ」創立10周年記念興行で両者の公式戦でのシングル対決が1度だけ実現。11分52秒に両者リングアウトで引き分けています。長州はこのシリーズ、体調不良でリーグ戦を途中棄権。シリーズ終了後のドバイ遠征でも不調は続き、自らの環境を変える為にメキシコヘ遠征に出て、10月に凱旋帰国。藤波に噛み付いて「革命戦士」として一躍スターダムへと踊り出ました。

一方の谷津は82年の「ブラディ・ファイト・シリーズ」まで出場していますが、フロリダのヒロ・マツダの元で再修行に出発。長州とはすれ違いになりました。谷津はフロリダからテキサスへと転戦し83年10月の「闘魂シリーズ」に凱旋帰国。長州率いる維新軍のメンバーとなり共闘。以後は反対側のコーナーに立つことはありませんでした。

試合は長州が圧倒、サソリ固めで痛めつけ、リキラリアットで谷津は場外に転落。上がって来たところをごぼう抜きのようなバックドロップ一閃、とどめはリング中央でのリキラリアット。16分、長州が谷津を体固めに決めてフォール勝ち。

試合後、長州はマイクを持つと「もう馬場、猪木の時代じゃないぞ、俺たちの時代だ!」とアピールしました。長州の「俺たちの時代」発言は日本プロレス史に残る名言となりました。週刊ゴングではこの発言を機に誌上で鶴田、藤波、長州、天龍の頭文字を使った「鶴藤長天」(かくとうちょうてん、格闘頂点との語呂合わせ)時代の到来と喧伝しています。
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