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2020年02月22日23:01

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週プロ流智美あの日あの時予想2019年総括(44)

第110戦 11月6日発売号●【予想】藤波、スティーブ・カーンを破りWWFジュニア・ヘビー級王座防衛、「ジュニアに敵なし」(80年新日本プロレス津市体育館)【正解】ドリー・ファンク・シニアvsサムソン・クツワダ(72年11月7日全日本プロレス後楽園ホール)【参考】2013年11月6日発売号はマイティ井上&アニマル浜口組、グレート小鹿&大熊元司組の極道コンビ破りアジア・タッグ王座獲得。(77年国際プロレス後楽園ホール)

【解説】流さんのコラムの中心となる昭和30〜50年代は11月6日というと、本当に出来事が少ない日であると言えます。

1日前の11月5日はザッと思い付くだけでも、力道山、バディ・オースチン破りインターナショナル王座防衛。(63年日本プロレス大阪府立体育会館)、猪木、星野勘太郎組、第1回NWAタッグ・リーグ戦優勝(70年日本プロレス台東体育館)、猪木、タイガー・ジェット・シンに路上襲撃される。(73年新宿伊勢丹前)、馬場、ディック・マードック破りPWFヘビー級王座防衛。(74年全日本プロレス大田区体育館)、馬場、ハーリー・レイスのリターンマッチ退けNWA世界ヘビー級王座初防衛。(79年全日本プロレス宮崎県串間市民体育館)、

猪木vsラッシャー木村ランバージャック・デスマッチ、藤波ヘビー級転向表明しWWFジュニア・ヘビー級王座を返上、アブドーラ・ザ・ブッチャー、パートナーのバッドニュース・アレンの負傷欠場でマードック、ディノ・ブラボーのどちらかを選んでシングル戦、ブラボーを選び観客の期待を裏切る。(81年新日本プロレス蔵前国技館)などがありネタの宝庫と言えますが、これは昭和時代、各団体が秋のシリーズを概ね11月1〜5日位までに終わらせ、暮れのタッグ・リーグ戦などのシリーズが開幕するまでの「端境期」にぶつかる時期だからでしょう。

80年新日本プロレス秋の陣「闘魂シリーズ」は11月6日の津市体育館で最終戦。メインイベントは藤波に元NWAインターナショナル・ジュニア・ヘビー級王者スティーブ・カーンが挑戦するWWFジュニア・ヘビー級選手権試合。

藤波とSカーンはこの年の「新春黄金シリーズ」2月1日、札幌中島スポーツセンターで互いのタイトルを賭けてダブル・タイトルマッチで対戦。反則含みながら藤波が2−0で勝ちジュニア二冠王者になりました。藤波はこの後2月5日、愛知県体育館でダイナマイト・キッドを14分54秒、回転足折り固めで降しWWFジュニア王座を防衛した後、シリーズ最終戦の2月8日、東京体育館でSカーンのリターンマッチを受け、(NWAインターナショナル・ジュニア王座のみ賭けられた)こちらも反則含みながら2−1で藤波が勝利し初防衛に成功しています。

藤波はシリーズ終了後フロリダへ防衛の旅に出掛け2月12日、フロリダ州セントピータースバーグ・ベイフロント・センターアリーナでSカーンを20分19秒、回転足折り固めで破りNWAインターナショナル・ジュニア王座2度目の防衛に成功しましたが、2月15日、フロリダ州ハリウッド・スポーツスタジアムでマイク・グラハムの挑戦を受け、反則含みではありましたが決勝の3本目、Mグラハムの足4の字固めにギブアップ負けし同王座転落。

しかし、次の「ビッグ・ファイト・シリーズ」終盤戦に新日本プロレスはMグラハムを招聘。藤波はシリーズ終盤、タイトルマッチの連戦となりました。4月2日、大阪府立体育会館で剛竜馬を14分46秒、場外でのジャーマン・スープレックスでリングアウト勝ち、4月3日、蔵前国技館で国際プロレスの阿修羅・原を12分56秒、逆片腕固め(三角絞め)でギブアップさせてWWFジュニア王座連続防衛。シリーズ最終戦の4月4日、川崎市体育館ではMグラハムを8分33秒、ジャーマン・スープレックスホールドで破りNWAインターナショナル・ジュニア王座奪回に成功して再び二冠王になりました。

シリーズオフに海外遠征、4月13日、メキシコシティ・エル・トレオ・デ・クアトロ・カミノスでフィッシュマンを2−1で降しWWFジュニア王座10度目、4月16日、フロリダ州マイアミビーチ・コンベンションセンターでドン・ダイヤモンドをジャーマン・スープレックスホールドで破りNWAインターナショナル・ジュニア王座を防衛。

5月9日、福岡スポーツセンターでは宿敵チャボ・ゲレロを17分50秒、ジャーマン・スープレックスホールドでフォールしWWFジュニア防衛を果たしましたが、7月2日、札幌中島体育センター(80年4月に所管が札幌市から北海道に変わり、「北海道立札幌中島体育センター別館」が正式名称となる)で予定されていたジョニー・マンテルとのNWAインターナショナル・ジュニア王座防衛戦は右手薬指骨折の為、試合に出場出来なくなり同王座返上を余儀なくされました。

7月17日、蔵前国技館でのキース・ハートとのWWFジュニア王座防衛戦は藤波は猪木に直訴し負傷を押して強行出場、8分20秒、首固めでキースから3カウントを奪い王座防衛。藤波が返上したNWAインターナショナル・ジュニア王座は7月23日、北九州市西日本総合展示場で木村健吾とブレット・ハートの間で王座決定戦が行われ、15分24秒、木村健がパイルドライバーからの体固めで勝ち、王座獲得。新日本プロレスにジュニア王者が2人誕生しました。

8月8日、ロサンゼルス・オリンピック・オーデトリアムではトム・プリチャードを13分32秒、ジャーマン・スープレックスホールドで降しWWFジュニアを防衛した藤波は翌8月9日、ニューヨーク・センチュリー・シェアスタジアムでのWWFのビッグマッチでCゲレロを破り同王座連日防衛。

9月11日、大阪府立体育会館でトニー・ロコを20分1秒、前方高角度回転エビ固めで降し防衛記録を15に伸ばした藤波は9月25日、広島県立体育館で木村健のNWAインターナショナル・ジュニア王座に挑戦。流血戦の末、24分36秒、両者KOで引き分けとなり二冠王者返り咲きは成らず。

本連載(26)7月3日発売号分でも書いたオクラホマのプロモーター、レロイ・マクガークが管理していた「正統の」NWA世界ジュニア・ヘビー級王者だった(素行不良で王座を剥奪されていた)ロン・スターと9月30日、日本武道館でWWFジュニア・ヘビー級王座防衛戦を行い16分39秒、力技の逆エビ固めでスターからギブアップを奪っており、誰もが認めるジュニア最強の呼び声が高くなりました。

10月10日、後楽園ホールで開幕の「闘魂シリーズ」に無冠となったSカーンが再来日、シリーズ最終戦の11月6日、津市体育館で藤波のWWFジュニア王座に挑戦。安定した試合ぶりの藤波は17分41秒、ジャーマン・スープレックスホールドでSカーンを返り討ちにしてみせました。Rスターの後NWA世界ジュニア王者となったレス・ソントンはいましたが、もはや藤波にとってジュニアで倒すべき相手は世界にはいなくなったと言っても過言ではありませんでした。

全日本プロレスが旗揚げした72年、馬場は団体設立にあたって外国人レスラーのブッキングルートを確立する為に日本テレビの原章チーフ・プロデューサーを伴い渡米。

馬場が先ず交渉に当たったのはテキサス州アマリロのドリー・ファンク・シニアのところでした。当時のNWA世界ヘビー級王者は息子のドリー・ファンク・ジュニア。ドリー・シニアがプロモーターをしていたアマリロは1ローカルテリトリーに過ぎませんが、ドリーが世界王者ということでブッキング権を持っていたところからNWA内部での発言力は持っていました。

ドリー・シニアは69年11月、ドリーがNWA世界王者として日本プロレスに初来日した時にマネージャーとして来ており、試合もしていますが、既に50歳の中堅ロートル・ヒールレスラーでした。ドリー・シニアは「鳶が鷹を産んだ」とばかりドリーと翌70年7月に日本プロレスに初来日するテリー・ファンクは自慢の息子でした。

馬場の訪問をドリー・シニアは全面的に歓迎し全面協力を約束しています。この時点で馬場はまだNWAのメンバーではなく、日本プロレスの芳の里社長と遠藤幸吉取締役がメンバーでしたが、ドリー・シニアは馬場を信用していたのです。

馬場と原プロデューサーはこの時の外訪でニューヨークを訪れ馬場の親友ブルーノ・サンマルチノ、ミシガン州デトロイトのザ・シーク(エドワード・ファーファット)の協力を取り付け、アブドーラ・ザ・ブッチャーの一本釣りに成功。テキサス州ダラスのフリッツ・フォン・エリック(ジャック・アドキッセン)にも協力を要請していますが、エリックは態度を保留しています。

10月21日、町田市体育館で旗揚げ前夜祭を開催した「旗揚げジャイアント・シリーズ」にはサンマルチノ、テリー、フレッド・ブラッシー、ドン・デヌーチ、ジェリー・コザック、ダッチ・サベージの外国人選手が参戦。ブッカーのドリー・シニアも11月2日の長野市民体育館からテリーと入れ替わりで特別参加しています。

長野ではドリー・シニアはサンマルチノと組んで馬場&大熊元司組とメインイベントで対戦。1本目は8分56秒にサンマルチノが大熊を体固め、2本目は4分37秒に日本組が反則勝ち、決勝の3本目は1分45秒、馬場がドリー・シニアを片エビ固めに決めて2−1で馬場&大熊組の勝利。

53歳でプロモーター業が主体でセミリタイア状態のドリー・シニアにメインクラスの試合はきついと馬場が判断したか、翌日からポジションは下がり、11月3日、上田市民体育館ではサンダー杉山に8分1秒、リングアウト負け。11月4日、直江津市厚生会館ではセミファイナルで大熊と45分3本勝負で対戦、1本目は両者リングアウト、2本目は4分5秒、大熊にエビ固めでフォール負け。

11月5日、新潟・六日町国民体育館で若手の佐藤昭夫(昭雄)に8分4秒、「伝家の宝刀」元祖スピニング・トーホールドでギブアップ勝ち。本コラムで書かれている11月7日、後楽園ホール(全日本プロレスは読売巨人軍、後楽園スタジアムとの関連から旗揚げシリーズから後楽園ホールで興行を開催している)でのサムソン・クツワダ戦は9分51秒、スピニング・トーホールドで勝利。

シリーズ最終戦の11月8日、豊川市体育館では再び佐藤昭夫を10分33秒、スピニング・トーホールドで降しています。選手としてというより、自分の目で全日本プロレスの興行を見る為の視察的な参戦だったと言えます。

翌73年2月に馬場は毎年8月の総会を待たずしてドリー・シニアの推薦でNWAに加盟していますが、その年の6月2日、ドリー・シニアのバースデーパーティーで酒を飲んだ状態で余興の「腕試し」シュートスパーリングをゴードン・ネルソンを相手に行った所、心臓発作を起こして54歳の若さで急逝してしまいました。

息子のドリーは19年11月現在で78歳となり、4代目PWF会長としてザ・デストロイヤー追悼興行や世界最強タッグ決定リーグ戦立会人として全日本プロレスに来日し時折試合も行うなど活躍しており、その流れで今回のコラムにドリー・シニア登場となった次第です。

※対戦成績は110戦22勝88敗。
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