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2020年02月17日23:01

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週プロ流智美あの日あの時予想2019年総括(39)

第105戦 10月2日発売号●【予想】全日本プロレス参戦の阿修羅・原が天龍と初対戦。(81年全日本プロレス後楽園ホール)【正解】馬場vs猪木、最後のシングルマッチ。(63年日本プロレス足利市月見が丘体育館)【参考】2013年10月2日発売号はインターナショナル選手権試合、力道山vsドン・レオ・ジョナサン。(58年日本プロレス蔵前国技館)

【解説】この時期世はラグビーワールドカップで日本中が沸いていた時期。元祖「世界で通用する日本人ラガーマン」阿修羅・原を思い出したプロレスファンも多かったのではなかったでしょうか…

81年8月9日、北海道・羅臼町民グラウンドで興行活動停止となった国際プロレス。選手達の今後の身の振り方が注目されましたが、吉原功代表は早稲田大学レスリング部の先輩でありテレビ朝日から出向していた永里高平新日本プロレス専務に選手全員を預ける方向で話を進めていました。

しかし、マイティ井上は「猪木さんのやり方が好きではない」と新日本プロレス行きを拒否。10月8日、蔵前国技館で予定されていた新日本プロレスと国際プロレス(団体は消滅しており、名前だけ)の全面対抗戦は出ないと宣言。

蔵前大会の記者会見は9月7日、新宿・京王プラザホテルで行われ、新日本プロレスからは坂口副社長、永里専務、新間寿営業本部長が出席、国際プロレスは吉原元社長、ラッシャー木村、アニマル浜口、阿修羅・原が出席。猪木vsR木村、藤波vs原、タイガーマスクvsマッハ隼人等のカードが発表されました。

9月16日には全日本プロレス事務所にてM井上が菅原伸義、米村天心(参加せず)、冬木弘道と共に全日本プロレス移籍を表明しています。

京王プラザホテルでの会見後、故郷長崎に帰っていた原は「ヘビー級の俺が何で今更ジュニアの藤波とやらなくてはいけないんだ」と新日本プロレスとの対抗戦をキャンセル、同時に「俺と大してキャリアの変わらない天龍が全日本所属と言うだけで(リック)フレアー(のNWA世界ヘビー級王座)に挑戦出来るなんておかしい。天龍は俺と闘って勝ったらフレアーに挑戦すればいい。」と矛先を全日本プロレスの天龍に向けて来ました。

馬場は原に天龍と対戦する機会を与え、10月2日、後楽園ホールでシングルマッチが実現。真っ向勝負の肉弾戦で16分38秒、両者リングアウトの引き分け。この試合を見て原を高く評価した馬場は原を全日本プロレスに入団させています。

原がレスラー引退後、滅多にない公の場でのムック本での取材で「あの時は藤波には悪いことをした」と後悔する発言をしているのは自業自得とはいえ、借金問題で馬場に切られ、収入源を失ったことに対する慚愧の念も混じっていたに違いありません。

永遠のライバル、馬場と猪木は日本プロレスの若手時代に全部で16回対戦し、馬場が16勝しているのは50代前後のファンにはよく知られたエピソードです。

60年9月30日、台東体育館で同日デビューを果した馬場と猪木の初対決は61年5月25日、富山市体育館で10分、馬場がフルネルソンでギブアップ勝ちを収めました。猪木も天性の肉体的強さを持っていたとはいえ、23歳の馬場と18歳の身体ではやはり差がありました。

同期という意味では武藤敬司と船木誠勝(優治)みたいなものでしょう。

同年7月、馬場はアメリカ修行に出発。ニューヨーク地区でヒールとして活躍、63年3月の「第5回ワールド・リーグ戦」に凱旋帰国。猪木も馬場渡米中の62年の「第4回ワールド・リーグ戦」とこの第5回大会には出ましたがランクは下位でした。

馬場帰国後は両者のシングルマッチは45分3本勝負というセミファイナル級の試合時間で組まれ、7月28日、三島市三島神社境内特設リング、8月3日、岸和田市港広場特設リング、9月4日、刈谷市営球場ではいずれも猪木が馬場から1フォール奪っていますが2−1で馬場の勝ち。

10月2日、足利市月見が丘体育館での20分1本勝負は12分、馬場が体固めで勝ちましたが、この試合の後、馬場は真のメインイベンターとなるべく2度目のアメリカ修行に出発。

12月15日、力道山が暴漢に刺された傷がもとで腸閉塞を起こして急逝、力道山死後の64年2月、猪木もアメリカ修行に出て、両雄は日本プロレス界を支えるスター選手に成長。足利での一戦が両雄最後のシングルマッチとなりました。

※対戦成績は105戦21勝84敗。
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