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2019年11月13日23:48

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猪木とビンス(586)最終章

80年国際プロレス「第二次ダイナマイト・シリーズ」噂の超大物「ミスターZ」のダスティ・ローデスは結果は参戦せず。

恐らく、2年前の78年9月の「ダイナマイト・シリーズ」にミル・マスカラスを全日本プロレスからレンタル参戦させようとして失敗したのと同様、国際プロレス側の勇み足だったかと思います。

吉原は新日本プロレスを通してローデスの参戦を打診、新間寿営業本部長より内諾は得ていたものの、当時スタン・ハンセン、WWFヘビー級王者ボブ・バックランドより高額の推定週給1万ドルと言われたローデスのギャラを国際プロレスが用意出来ず、話は頓挫したかと推測致します。

「ミスターZ」は今度は7年半ぶりの来日となる"マットの魔術師"エドワード・カーペンティアの名前がリストアップされ、10月4日の近江八幡市立運動公園体育館で大木金太郎のインターナショナル王座に挑戦と発表されました。

カーペンティアは57年6月14日、イリノイ州シカゴのコミスキー・パークで時のNWA世界ヘビー級王者、ルー・テーズに挑戦、決勝の3本目、テーズがカーペンティアの攻撃を嫌がり、故意に上半身をロープ外へ出す動きを繰り返しレフェリーはテーズのネガティブ・ファイトを試合放棄と取られ、カーペンティアの勝ちを宣言。

ベルトはカーペンティアの手に一旦渡りましたがテーズは「試合中でのインサイドワークの一つ」と抗議。またフォールによる勝敗ではなくルール上、ベルト移動要件にはあたらないと王座移動は認められず。

そこからカーペンティアを初代王者とするAWA、NAWA(WWA)が誕生、第二次世界大戦後の48年にNWAが発足して以来の「一党独裁制」が崩れています。

カーペンティアは70年7月に国際プロレスに初来日、当時既に44歳とピークを過ぎていたことや、また写真で日本に紹介された必殺技「サマーソルトキック」が実は単なる宙返りだったことがわかりファンの幻想を崩しました。

カーペンティアは70年8月3日、盛岡・岩手県営体育館でサンダー杉山、再来日時の73年4月27日には仙台・宮城県スポーツセンターでストロング小林のIWA世界ヘビー級王座に挑戦していますがいずれも2−1で敗退、日本ではトップの扱いではなかったです。

特別レフェリーとして来日するテーズとの日本での顔合わせも注目されましたが、カーペンティアも来日がキャンセルされました。

カーペンティアは75年1月の新日本プロレス「新春黄金シリーズ」に来日が発表されましたがこの時もキャンセル。さらに国際プロレスがカーペンティア招聘に動いた翌81年、今度は全日本プロレスがカーペンティアと親交が深いザ・デストロイヤーを通してオファーし10月の創立10周年記念「ジャイアント・シリーズ」に参加すると発表がありましたがこれもキャンセルとなっています。

結局、カーペンティアは脱税で禁固刑を受けており、当時在住していたカナダからは出国することが出来なかったのがこれまで来日キャンセルが続いた原因だった訳です。

カーペンティアの代わりになる外国人は時間の関係もあって呼ぶことが出来ず、前79年末まで国際プロレスのリングに上がり、80年に入ってからは新日本プロレスに戻っていた上田馬之助を新日本プロレスからレンタル参戦させて大木のインターナショナル王座に挑戦させることになりました。

近江八幡大会「世界三大タイトルマッチ」メインイベントはラッシャー木村のIWA世界ヘビー級王座にビッグ・ジョン・クインが挑戦。(61分1本勝負)大柄で凄いナチュラルパワーの持ち主であるクインにR木村は大苦戦しましたが14分29秒、リングアウト勝ちを拾い、9度目の防衛に成功しています。

大木vs上田のインターナショナル選手権試合(61分1本勝負)は最初から荒れた展開になり11分40秒に両者リングアウトの引き分けとなり大木が28度目のタイトル防衛。

上田はこの後10月10日、後楽園ホールで開幕する新日本プロレスの「闘魂シリーズ」に参戦しますが、ここでも新日本プロレスは恣意的と思えるようなマッチメークを組み、大木vs上田のインター戦ドロー判定の価値を落としています。

10月24日、沖縄・那覇市奥武山体育館
WWF北米ヘビー級選手権試合61分1本勝負
坂口征二(6分49秒体固め)上田馬之助

また10月30日、熊本市体育館で行われた坂口&長州力組vsタイガー・ジェット・シン&上田組の北米タッグ選手権試合では決勝の3本目、長州のバックドロップの前に上田がフォールを奪われて2−1でシン&上田組は敗退しています。

話を国際プロレスの近江八幡大会に戻します。マイティ井上&アニマル浜口組の持つIWA世界タッグ王座にはアレックス・スミルノフ&ザ・USSR(チャーリー・フルトン)組が挑戦。(61分3本勝負)

1本目は12分32秒、USSRが浜口を体固め、2本目は4分8秒、浜口がUSSRを体固め、決勝の3本目は2分34秒、両チームリングアウトとなりM井上&浜口組が2度目の防衛を果たしました。

放送時間帯変更第1弾の近江八幡大会90分特番生中継の視聴率は4.5%、(ビデオリサーチ社調べ)局側の期待の10%には遠く及ばず。

シリーズ最終戦となった10月11日、越谷市体育館ではR木村のIWA世界ヘビー級王座に国際プロレス初参戦となったロン・バスが挑戦。(61分1本勝負)このシリーズ、スミルノフに挑戦の機会はありませんでしたが、バスとスミルノフによるエース争いはなく、すんなりバスの挑戦が決まりました。

スミルノフはこの年の夏、前年国際プロレスのリングで一緒だった上田に「国際プロレスのギャラが安いので、新日本プロレスを紹介してくれないか」と依頼。上田の口利きで「サマー・ファイト・シリーズ」への参戦が内定していましたが、スミルノフがギャラをふっかけて来て新間が「それなら要らない」と断り、新日本プロレスの参戦は幻に終わりました。

この交渉は「ゴング」誌にも掲載され吉原の知るところとなった為、大人しくなったかと考えます。

試合はR木村が9分22秒、ドリルアホール・パイルドライバーからの体固めでバスからフォールを奪い、完勝で10度目の防衛をしています。

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