79年国際プロレス「デビリッシュ・ファイト・シリーズ」11月16日、和歌山県立体育館大会セミファイナルでは前日の飛騨高山大会でエース争いを巡って乱闘となったモンゴリアン・ストンパーとアレックス・スミルノフが6人タッグで激突。
ストンパー&上田馬之助&鶴見五郎組vsスミルノフ&ジプシー・ジョー&キューバン・アサシン組というカードが組まれました。
試合は10分57秒、ストンパーがアサシンを強烈なストンピングからの体固めでフォールし、ストンパー&上田&鶴見組の勝利。
メインイベントでラッシャー木村がバーン・ガニアにリングアウト勝ちしIWA世界ヘビー級王座を奪還しベルトの海外流失を防いだ為、12月4日、後楽園ホールで試合に勝ったストンパーがR木村の初防衛戦の相手に決定しました。
スミルノフは7月21日に村上市民会館でR木村を破り同王座を獲得。25日三島市民体育館でのリターンマッチに敗れ4日天下に終わっていますが、元王者だけにスミルノフのリターンマッチの権利もある訳ですが、今回はストンパーに挑戦権が与えられました。
スミルノフは国際プロレスに初参戦した77年9月の「スーパー・ファイト・シリーズ」でも、9月23日、栃木県市貝町立中学校体育館でR木村からノンタイトルでフォール勝ちをしておきながら、同時にマスクマンのマスクド・グラップラーとして来日し、開幕戦で自らマスクを脱いで正体を明かしたカウボーイ・ボブ・エリスがIWA世界ヘビー級王座に挑戦しています。(9月29日川崎市体育館)
吉原は団体末期にルー・テーズ杯争奪リーグ戦を興行の柱にしたことでもわかる通り、格を重視するところがありエリスは63年の日本プロレス時代に力道山と闘っている実績があり、ストンパーは日本プロレスの71年2月2日、広島県立体育館で馬場のインターナショナル王座に挑戦し1−1で引き分けています。
スミルノフがマイク・デュボアのリングネームで全日本プロレスにグリーンボーイとして初来日したのが74年2月ですから業界的にはエリス、ストンパーが格上、新日本プロレスがタイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセンを何が何でも売り出そうとして色々アングルを仕掛けていった貪欲さでスミルノフを売り出して行けばまた違った成果が出せたのではないでしょうか?
12月4日、後楽園ホールで行われたR木村vsストンパーのIWA世界ヘビー級選手権試合は試合中に椅子を持ったスミルノフが乱入、場外に落ちたストンパーめがけて背中を椅子で滅多打ち。私はこの興行は観に行きました。
ダメージを受けてリングに上がったストンパーをR木村がドリルアホール・パイルドライバーから10分49秒、体固め。R木村が初防衛に成功しています。試合後もストンパーとスミルノフはR木村そっちのけで乱闘を展開しました。
私は一緒に観に行った高校の同級生達と、後楽園ホールのエレベーター前で「出待ち」をしましたが、さっきまで血相を変えて乱闘していたストンパーとスミルノフが楽しそうに談笑しながら同じエレベーターで降りてきたところを目撃してしまいました…(実話)。
新日本プロレスとの提携効果が数字に出たか、いつもは12月丸々自主興行を休むことが多い国際プロレスでしたが、この年のデビリッシュ・ファイト・シリーズは最終戦の12月5日、古河市立体育館まで全30戦が組まれ、持ち直しました。
しかし、この年の東京スポーツ新聞社制定「プロレス大賞」は年間ベストバウトが8月26日、日本武道館でのプロレス夢のオールスター戦メインイベント、馬場&猪木組vsアブドーラ・ザ・ブッチャー&タイガー・ジェット・シン組。MVPの最優秀選手賞は10月31日、愛知県体育館でハーリー・レイスを破り2度目のNWA世界ヘビー級王座戴冠を果たした馬場。準MVPである最高殊勲選手賞が11月30日、徳島市立体育館でボブ・バックランドを破り日本人初のWWFヘビー級王者となった猪木。(最優秀タッグチーム賞は該当なし)
R木村、鶴田は受賞なし。国際プロレスからは凱旋帰国してWWU世界ジュニア・ヘビー級王者となった阿修羅・原が殊勲賞を受賞したのみ。後は当時の男子3団体から1名ずつ選ばれる努力賞に高杉正彦が選ばれただけでした。
東スポプロレス大賞の結果がもちろん全てではありませんが、R木村は2度のIWA世界ヘビー級王座転落が響いたか、BIに大きく水を開けられてしまった訳です。
80年は国際プロレスにとって「魔の一年」、崩壊へのトリガーが立つ年になっていきます。
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