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2019年10月28日21:21

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猪木とビンス(570)最終章

79年国際プロレス「デビリッシュ・ファイト・シリーズ」11月12日、新潟・小出郷体育館からAWAの帝王、バーン・ガニアが5年ぶりに特別参加。前シリーズのAWA世界ヘビー級王者、ニック・ボックウィンクルに続き、AWAから超大物を連続招聘しました。

前に書いた通り、国際プロレスとAWAは業務提携を解消しており、ニックもガニアも単発一本釣りの契約でした。おそらく、10月にニックを呼んだ時の交渉の中で「ニックを貸し出してタイトルマッチを組む見返りに私も日本に呼んで欲しい」とプロモーターであるガニアから吉原の「足元を見て」要望が出たかと思われます。

79年1月から新日本プロレス勢が参戦し、観客動員、テレビ視聴率もアップ、78年10月からは関東ローカルながら地方ネット局数も増え、10月5日に後楽園ホールで行われた「世界三大タイトルマッチ」は金曜日の開催ながら当日、東京12チャンネルで特番として午後7時30分から生放送されました。

この局内での数字が評価され、「国際プロレスアワー」に局より800万円の「特別強化費」が出されました。田中元和チーフディレクターは吉原に「大切に分けて使いましょう」と言っていましたが吉原はこの資金を会社の運転資金とガニアを呼ぶために使い切ってしまいました。

吉原にしてみれば、75年に入り業績の悪化からガニアに対して支払うブッキング料が払えず、また、前年凱旋帰国前にカナダ・カルガリーで交通事故に遭い、右足切断を余儀なくされた大剛鉄之介がブッカーとして第二の人生を送ることになった時、大剛に生活の基盤を与えないと、ということで大剛が活躍していたスチュ・ハート主宰のカルガリー「スタンビート・レスリング」からも外国人を呼ぶようになりました。

ガニアは激怒し、「ウチを取るか、ジョー(大剛)を取るか、はっきりしろ」と吉原に「二者択一」を迫り大剛ルートに絞ったことでガニアと縁が切れたことで、その時の「罪滅ぼし」、負い目を返そうと思ったのでしょう。

ガニアと言えば本物のシューター、実力者でありビッグネームですが、全盛期、日本プロレスに来ていなかったせいか、集客力は弱く、前回国際プロレスに来日した時の74年11月20日、蔵前国技館でのビル・ロビンソンとのAWA世界ヘビー級選手権試合(1−1から両者カウントアウト引き分け)は4,500人発表の観客しか集められず、実際は2,000人程度でした。

国際プロレスとAWAが業務提携を解消し、ガニアは76年3月には全日本プロレスのリングに登場、3月10日、日大講堂でジャンボ鶴田試練の十番勝負の第1戦の相手を務めていますが(1−1から両者カウントアウト引き分け)、この時も観客は4,100人発表と振るわず。

ガニアvsロビンソン戦が不入りに終わった時、ガニアはミネソタ州ミネアポリス・オーデトリアムやイリノイ州シカゴ・インターナショナル・アンフィシアターに10,000人余の大観衆を集める黄金カードなのにこの集客は何だ!と吉原を攻めたそうですが、国際プロレスの宣伝力の弱さもありますが、ルー・テーズ、カール・ゴッチ、ジン・キニスキー、ブルーノ・サンマルチノ程の一般的な知名度がガニアになかったのは事実でした。

ガニアの今回の参加日程は11月12日、新潟・小出郷体育館、13日、新潟・三条市厚生福祉体育館、14日、長野・諏訪湖スポーツセンター、15日、富山・飛騨高山市体育館、16日、和歌山県立体育館の5大会。

首都圏でも集客に苦戦するガニアを東京12チャンネルのネットが行き届いていない地方興行に投入したとしても、費用対効果で業績が上がるか考えればわかりそうなもので、ガニアを呼ぶとすれば後楽園ホールを中心とした、横浜文化体育館、川崎市体育館とか大宮スケートセンター、千葉公園体育館など関東近県に限定すべきであったと強く思います。

この翌々年の81年1月18日、馬場がガニアと3,000試合連続出場突破記念試合を「超満員の後楽園ホール」でやったのは賢明な判断でした。

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