79年2月23日、新日本プロレスの「ビッグ・ファイト・シリーズ」開幕戦である千葉公園体育館(テレビ生中継、観衆3,300人満員発表)で星野勘太郎&山本小鉄組のヤマハ・ブラザーズが保持して入るIWA世界タッグ王座に再びマイティ井上&アニマル浜口組が挑戦。
当日は午後8時よりテレビ朝日の「ワールドプロレスリング」の生放送があり、IWA世界タッグ戦は全9試合中、5試合目に組まれました。テレ朝の生放送開始前に行なわれ、東京12チャンネルが収録しています。
78年1月2日、全日本プロレスの後楽園ホールで行われたM井上&浜口組vsグレート小鹿&大熊元司組のアジア・タッグ選手権試合も東京12チャンネルが収録しており、今回もリング下の垂れ幕を一時的に取り替えて試合が行われました。
東京12チャンネルの放送席は会場2階席前方に設置されました。
敵陣のリングに乗り込んで来たM井上&浜口組は負けられない背水の陣。しかし、試合はヤマハのペースで進められました。1本目は11分54秒、山本が浜口をダイビング・ボディプレスから体固め。2本目は浜口が鉄柱攻撃で額を割られ流血。血を見てエキサイトしたヤマハが暴走し5分6秒、国際組の反則勝ち。
決勝の3本目、2本目の流血のダメージが残る浜口に山本がトドメとばかりブレーンバスター、しかし、そこへ、M井上が入って来てレフェリーの死角を突いて山本のガラ空きの脇腹めがけてフライング・ショルダーアタック。ダウンした山本を浜口が押さえ込み1分21秒、体固めでフォール勝ち。
2本目は反則勝ちながら、M井上&浜口組がIWA世界タッグ王座を奪回。ヤマハは圧倒的強さを見せつけながらも最後に逆転負けし1か月天下に終わりました。
3回の国際組とヤマハの顔合わせのうち、ヤマハでフォールを奪われたのは全て山本(3回)。1本勝ちを奪ったのは山本3回、星野1回。星野はフォール負けなし。国際側はM井上はフォール、被フォールとも1回ずつ、浜口はフォール2回、被フォール3回と負け越し、草津はどちらもなしでした。
4月9日、後楽園ホールで開幕した国際プロレスの東京12チャンネル開局15周年記念「ビッグ・チャレンジ・シリーズ」に新日本プロレスのルートよりシリーズ前半戦に上田馬之助、マサ齋藤、中盤戦には元IWA世界ヘビー級王者であり、元WWWFヘビー級王者のはスーパースター・ビリー・グラハム、終盤戦にはWWU世界ジュニア・ヘビー級王者を名乗る「ユーゴの鷹」ミレ・ツルノが初来日、ツルノのマネージャー格としてチャールズ・べレッツ(ジョニー・ロンドス)の参加が決定。
新日本プロレスは対抗戦だけでなく、フリー日本人選手、外国人選手をレンタル参戦させて国際プロレスを支援しました。
上田とM齋藤は2月23日〜4月5日までの新日本プロレス、ビッグ・ファイト・シリーズが終わってから、4月27日、横浜文化体育館で開幕する「第2回MSGシリーズ」までのオフ間を利用しての参戦。
上田は76年7月31日、越谷市体育館でのラッシャー木村との金網デスマッチによるIWA世界ヘビー級王座決定戦を負傷を理由に棄権して以来約3年ぶりの国際参戦。
M齋藤は67年1月の国際プロレス、東京プロレス合同興行以来12年ぶりの国際プロレス参戦、事実上の初登場となりました。
グラハムは初来日は74年9月の国際プロレスでしたが、翌75年秋にWWWF入りしブルーノ・サンマルチノのライバルとして売り出され、76年8月の「闘魂シリーズ」にWWWFのルートから新日本プロレスに初参戦。77年4月30日、メリーランド州ボルチモアでサンマルチノにフォール勝ちしWWWFヘビー級王座を獲得。
ショートリリーフ王者になるかと思いきや、高いヒール人気からか、粘り強くベルトを守り続け、78年2月にはWWWFヘビー級王者として新日本プロレスに再来日、2月8日、日本武道館では坂口征二の挑戦を受け19分33秒、リングアウト勝ちで王座防衛。
2月20日、ニューヨークMSGでボブ・バックランドに敗れベルトを失うまで10か月王座を保持していました。
ツルノは初来日、べレッツことロンドスは72年1月、べレッツとして国際プロレスに初来日しますが、同年11月にはカール・ゴッチのブッキングで新日本プロレスにロンドスのリングネームで参戦、75年2月には新日本プロレスに再来日を果たしています。
ツルノとべレッツは前78年11月、猪木が参加したローラン・ボック主催の「欧州世界選手権シリーズ」で猪木との接点が出来ての新日本プロレスを経由しての国際プロレスへの来日となりました。ヨーロッパマット界と縁が切れてから久々のヨーロッパ勢の参戦となった訳です。
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