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2019年10月16日21:48

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猪木とビンス(558)最終章

79年2月5日、新日本プロレスと国際プロレスが擁立した日本プロレスリングコミッショナーに自民党の衆議院議員で元内閣官房長官である二階堂進の就任が発表されています。

日本プロレス界の産みの親、力道山はプロレスをアメリカでやっている興行に倣うことなく、プロ野球、大相撲、プロボクシングと並ぶメジャースポーツとして売り出す方針を決め、その為に外部よりの権威を必要とし、53年7月30日の日本プロレスリング協会発足と同時に、コミッショナー制度を導入しました。

初代日本プロレスリングコミッショナーになったのは「相撲の殿様」と言われた元貴族院議員、伯爵の酒井忠正。2代目からは自民党の衆議院議員である大野伴睦、力道山死後は川島正次郎、椎名悦三郎がコミッショナーを務めていました。

73年の日本プロレス崩壊と共にコミッショナー制度は自然消滅し、国際プロレス、新日本プロレス、全日本プロレスはコミッショナーを持たない団体として活動。

しかし、プロレスの権威付け、市民権に拘っていた新間寿は新日本プロレス旗揚げ後も立会人として政治家をリングに上げていました。秋田大助、福田宏一、森喜朗らの著名政治家が蔵前国技館等のリングに上がりタイトルマッチの「認定宣言」を読み上げるのが習慣となっておりました。

二階堂コミッショナーは田中派の大物であり、田中角栄が逮捕されて大きな話題となった76年のロッキード事件では「灰色高官」の1人になり表舞台から姿を消していましたが、復権しています。

新宿の京王プラザホテルで行われた記者会見で新間は「馬場さんの全日本プロレスにも(コミッショナー傘下に)入って欲しい」とアピールしましたが、案の定、馬場はこれを無視。

二階堂コミッショナー担ぎ出しは新日本プロレス主導で進められており、正直、国際プロレスにとってはどうでもいい話でしたが、これで、前78年迄とは打って変わり、全日本プロレスvs新日本プロレス&国際プロレスという図式が出来上がりました。

国際プロレスに二階堂コミッショナーが来たのは翌80年3月31日、後楽園ホールでの「世界4大タイトルマッチ」の1回だけ。二階堂先生への「お車代」の負担も国際には重荷で何らコミッショナー傘下に入るメリットはありませんでした。

二階堂コミッショナーがリングに初登場したのは翌2月6日、新日本プロレス大阪府立体育会館での猪木vs謎の覆面空手家、ミスターXとの格闘技世界一決定戦(WWWF格闘技世界ヘビー級選手権試合)。

ミスターXは当時少年マガジンに掲載されていた梶原一騎原作、中城健漫画の「同時進行」劇画「四角いジャングル」に出て来る謎の空手家、全米プロ空手での成績が46戦20勝26反則負け、あまりの凶暴さに全米プロ空手協会を追放されたという触れ込み。

正体はジョー・ヘスともポコ・ガブリエルとも言われていますが、負傷でマスクの中の選手が来日出来なくなり、究極ロサンゼルスで探してきた黒人の巨漢をミスターXに仕立て上げて猪木と試合をさせました。

試合内容は過去作品「ファンタジープロレスの巨匠桜井康雄さん追悼」に詳しく書いてありますのでそちらをご一読頂けると幸甚です。結果は3ラウンド50秒、猪木が腕ひしぎ逆十字固めで勝ち、WWWF格闘技世界ヘビー級王座のベルトを初防衛しています。

この日の第1試合に国際プロレス勢が参戦し、新日本プロレスとの対抗戦が行われています。新日本プロレスは前78年12月16日、蔵前国技館でアニマル浜口&寺西勇組を迎え打った長州力&木戸修組、対する国際プロレスは稲妻二郎&スネーク奄美組。

この中に入ると軽量級の奄美が狙われ、13分8秒、木戸が奄美をジャーマン・スープレックスホールドで降して長州&木戸組が勝利を飾りました。
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