韓国遠征が終わった後の国際プロレス78年秋の「ダイナマイト・シリーズ」には国際プロレスに8年ぶりの来日となるオックス・ベーカー、初来日のデビッド・シュルツ、リップ・タイラーらが来襲。
なお、話は前後しますが、前77年まで国際プロレスの常連外国人だったキラー・トーア・カマタはこの年の5月に全日本プロレスに引き抜かれて移籍しています。カマタの件は、77年12月の「世界オープン・タッグ選手権」でヒール人気が爆発したアブドーラ・ザ・ブッチャーのザ・シーク不在時(当時デトロイトのプロモーター兼業の為長期の日本遠征が出来ず)の正パートナーとして4〜5週間のシリーズに対応出来る選手として白羽の矢を立てたものでした。
好人物として知られるカマタは吉原に「これだけの条件で馬場から誘われているが、行ってもいいか」と予め打診。吉原は「ウチではその金額は出せない、仕方ない」と渋々承諾したものでした。
全日本プロレスに登場したカマタは6月1日、秋田市立体育館で馬場から反則勝ちながらPWFヘビー級王座を奪うという大仕事をやってのけました。(6月12日に一宮市産業体育館でビル・ロビンソンに敗れ転落)これは吉原からカマタ移籍に対して「いい扱いをして欲しい」と馬場に依頼があったことによるものと言われています。
さて、9月のダイナマイト・シリーズに吉原は馬場にミル・マスカラスの参戦を打診して9月15日、津久見市体育館大会のマスカラスの顔写真が載っている幻のポスターが先頃ヤフオクで350,000円で売りに出されました。
このあたりの憶測については別の日記に詳細を書かせて頂いていますので今回は割愛しますが、いずれにしてもマスカラスの参戦は流れ、馬場と吉原の関係が悪化したことは事実でしょう。
9月21日、新日本プロレスの品川プリンスホテル・ゴールドホール大会の会場に吉原が突如として姿を現し、猪木と会談、マスコミを驚かせていますが、これは自身のプロレス生活25周年記念イベント「日本リーグ争覇戦」に新日本プロレスからも選手を派遣して欲しいと要望を出し、新日本プロレス側も話をシャットアウトせず、星野勘太郎、山本小鉄を参加させると回答しています。
しかし、国際プロレスと長年友好関係にある馬場は鶴田以下多数の選手を貸し出すことから、新日本プロレスの選手参加に難色を示し、「ならばウチは協力しない」と強行に出て来た為に、吉原は新日本プロレスの申出を謝絶せざるを得なくなり、先輩である吉原が猪木の元へ筋を通しに挨拶に来たものでした。
これは「飛んで火に入る夏の虫」だったか、新日本プロレスは吉原を取り込みにかかりに出ます。吉原もまた、マスカラスの一件、馬場の高圧的な態度に嫌気が差したように思いました。
ダイナマイト・シリーズではR木村は9月25日、高岡市民体育館、10月13日、常陸太田市民体育館でベーカーを連破しIWA世界ヘビー級王座の防衛記録を20まで伸ばしました。この後はタイトル戦のない日本リーグ争覇戦を残すのみとなり、2年連続、王座転落なしでの年越しが早くも確定しています。
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