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2019年08月21日22:42

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猪木とビンス(503)最終章

サンダー杉山からビル・ミラーの手に渡り、海外流失していたIWA世界ヘビー級王座ですが、アメリカ修行中のストロング小林が71年6月19日、ミネソタ州ダルースでBミラーに挑戦。

58分26秒の死闘の末、体固めでBミラーを破り王座を獲得した、とありますが、実際にこの試合は行われていない可能性が強いです。

第4代王者となったS小林は次期「ビッグ・サマー・シリーズ」に凱旋帰国。7月6日、東京体育館では凱旋マッチとしてチャック・カルボを2−1で破り(カルボの1本は暴走したS小林の反則負けであり、実際はワンサイドゲームであった)、初防衛に成功。

71年後半は国際プロレスにS小林時代が到来しています。

S小林はこの年、カルボ、ブラックジャック・ランザ、レッド・バスチェン(2回)、バロン・フォン・ラシク、ジェリー・ブラウン、初来日のダスティ・ローデスの挑戦を退け、7度の防衛を果たし71年を締めくくりました。

この年の暮れ、猪木が会社乗っ取りを企てたとして日本プロレスを除名・追放処分になっていますが、国際プロレスが猪木獲得に動くのでは!?との報道が当時されましたが、67年の東京プロレスとの合同興行の際、袂を別れた猪木を吉原は快く思っておらず、きっぱりと否定。

もしこの時、吉原が私情を捨て当時「民放の雄」と言われ、高視聴率番組を多数持っていたTBSから多額の資金を引っ張り、猪木獲得に動いていたら日本のプロレスの歴史は大きく違っていたことでしょう。

猪木は1月26日、新日本プロレスの設立記者会見を行い、29日には世田谷区野毛の自宅を改装した道場開きを行っています。

72年1月の「新春パイオニア・シリーズ」にはカーチス・イヤウケア(キング)が国際プロレスに初登場。S小林は1月6日、島原市体育館でBミラーの弟であるダン・ミラーを降しIWA世界ヘビー級王座8度目の防衛に成功していましたが1月17日、四日市市体育館でイヤウケアがS小林の王座に挑戦。1−1から両者リングアウトと大苦戦し9度目の防衛。

1月27日、横浜文化体育館で金網デスマッチによる初のIWA世界戦が組まれ、テレビ放映なしとして5,500人超満員札止めの観客が集まりました。28分50秒、S小林がKO勝ちで10度目の防衛に成功。以後、国際プロレスでは金網デスマッチによるタイトルマッチを連発していくようになる訳です。

S小林はシリーズ最終戦の2月1日、大阪府立体育会館でもローム・マスク(ジルベール・ボワニー、75年5月、新日本プロレスにマスクド・グラディエーターとして来日)を破って11度目の防衛を果たし、不動のエースとなっていきます。

ちなみにこの次期、後にS小林との確執が多方面で書かれるようになったグレート草津はアメリカ遠征中でした。
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