国際プロレスではグレート草津を4週連続ルー・テーズのTWWA世界ヘビー級王座に挑戦させる計画もあったと聞きますが、開幕戦の日大講堂で草津が惨敗してしまった為にこの計画も頓挫。まさに国際プロレスの茨の道を予想させるような残念な船出となりました。
翌週の68年1月10日、大分県営体育館でのテレビ生中継はサンダー杉山がテーズに挑戦。2−1でテーズが勝って防衛。杉山と草津はキャリア的にはほぼ同期ですが、草津は潰して杉山に1本取らせたのはテーズが杉山を64年東京五輪アマレス日本代表ということで認めていたからだと言えます。
第3週は1月17日、仙台・宮城県スポーツセンターのテレビ生中継で豊登がテーズに挑戦。1本目は豊登がベアバッグ(サバ折り)で先制も2本目テーズのバックドロップが炸裂して失神、3本目は試合放棄となっています。
この仙台大会に、1月3日の日本プロレス蔵前国技館大会の後、欠場していた大木金太郎が姿を現し、テーズに挑戦すると言うアングルが組まれていました。
大木は日本プロレスの芳の里社長から「世界、もしくは世界に準ずるタイトルを獲得したら力道山を襲名させる」という口約束を取り付けており、前67年4月29日、韓国・ソウル市奨忠体育館でマーク・ルーインを破り、力道山、豊登が獲得したWWA世界ヘビー級王座を獲得。7月14日にロサンゼルスでマイク・デビアス(テッド・デビアスの父)に敗れて王座は失いましたが条件は満たしていました。
しかし常識的に考えて大木に力道山を名乗らせる訳にはいかず約束は反故にされており、力道山死後、韓国人ということで人種差別を受けていたとして不満を募らせ、日本プロレスからの離脱を画策。水面下でグレート東郷が大木を引き抜きにかかりました。吉原、TBSの応諾を得てこの日のテーズ挑戦へのアングルが実現する予定でした。
大木は会場まで来ていましたが直前になり日本プロレスからの「ある圧力」がかかって、国際のリング登場は中止となり大木は結果的には日本プロレスに戻っています。その圧力の正体が何であったかは未だ明らかにはされていませんが反社会的勢力が濃厚、書けないと言うことはそういうことなのでしょう。
この翌日の1月18日、外国人ブッカーであったグレート東郷が宿泊していたホテル・ニューオータニに日本プロレスのレフェリーであったユセフ・トルコが松岡厳鉄を伴って殴り込み、東郷に暴行を加えるという事件が起きています。
東郷は力道山時代の外国人ブッカーとして知られ、力道山の相手に相応しい大物外国人を多数ブッキングしてきましたが、一方でブッキング料と称したピンハネが酷く日本プロレス側は力道山の死後、東郷と絶縁し代わりにミスター・モト(チャーリー岩本)をブッカーに起用。
東郷には相応の「手切れ金」を支払ったそうですが代わりに日本プロレスとはもう関わらないと約束していました。しかし日本プロレスのオポジションである国際プロレスのブッカーを務めて多額のブッキング料をせしめ、大木を引き抜きにかかったとあっては「正義漢」を自認するトルコが黙ってはおらず、日本プロレスきっての「武闘派」松岡を伴って東郷を襲撃したものでした。
松岡が押さえつけてトルコが殴り、東郷もビール瓶を持って反撃。だが1対2ではさしもの東郷も防戦一方となり、警察隊が出動する騒ぎになりましたが、結局は「レスラー同士の喧嘩」ということで刑事事件には発展せず、おおらかな時代でした。
翌日の新聞には「レフェリーより弱かった世紀の悪役」という見出しでゴシップ的な記事になりました。
大木の入団工作が失敗に終わり、テーズへの挑戦者がいなくなってしまった国際プロレスでは第4週の生中継、1月24日、東京・台東体育館で同時に来日していたダニー・ホッジをテーズに挑戦させました。外国人トップ同士の異例のタイトルマッチ、1本目はテーズが空中胴絞め落とし(フライング・ボディシザースドロップ)で先制。
しかし2本目はゴングとほぼ同時の僅か16秒、ホッジが回転エビ固めでフォールを奪いタイスコアに。このホッジのフォールはテレビCM中に起きてしまった為、視聴者は見ることが出来ませんでした。
決勝の3本目は4分16秒、ホッジが体固めでテーズからフォールを奪い、第2代TWWA世界ヘビー級王者となったものです。
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