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2019年08月13日22:02

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猪木とビンス(495)最終章

85年6月10日、元国際プロレス(法人名インターナショナル・レスリング・エンタープライズ株式会社)代表取締役で新日本プロレス顧問であった吉原功氏が胃癌の為、埼玉県大宮市(現さいたま市大宮区)の病院で亡くなっています。享年55歳。

吉原は30年3月2日、北海道・樺太(ロシア領サハリン)出身。(公称は岡山県出身)早稲田大学レスリング部主将を務め、卒業後は東洋製鉄に就職するも、日本橋浪速町(現日本橋久松町)の力道山道場にレスリングの稽古に参加している時に力道山に声をかけられ、53年に日本プロレス入り。

56年には大坪清隆を破り日本ライト・ヘビー級王座を獲得するも身体が小さく、当時の日本プロレスでは軽量級の活躍する場所がなかった為、フェードアウトする形で引退。力道山死後の日本プロレスでは取締役営業部長を務めましたが、早大卒の吉原は中卒、相撲上がりの豊登、芳の里、さらに遠藤幸吉ら上席役員達とことごとく意見が合わず。

66年、リキスポーツパレスの売却問題では、力道山の別法人の資産であったリキパレスを第三者に任意売却し力道山の他の事業で作った借金の為に多重に抵当権が設定されていたものを外そうとした吉原に対し、遠藤は「吉原は会社の実権を握ろうとしている」と真っ向から対立し、同年10月日本プロレスを退職。

既に吉原の日本プロレス退職の準備はその前から進められており、66年5月、生前の力道山の方針に馴染めず、日本プロレスを退団してフリーとなり、ペルーに住んでいた叔父を頼ってペルーに渡り、ペルーからアメリカでプロレスラーとして成功したヒロ・マツダ(小島泰弘)が日本プロレスのゴールデン・シリーズに凱旋帰国しフリー参戦。

ジャーマン・スープレックスホールドを駆使した新しいスピーディーなプロレスでファンを魅了。吉村道明と組んでアジア・タッグ王座を獲得する等注目を集めていましたが、吉原はマツダに声をかけて「新団体設立」の準備を開始していました。

当時は65年末に会社の資金を使い込んだとして日本プロレス代表取締役の座を解任されて除名処分となった豊登が、アメリカ修行を終えて日本プロレスの第8回ワールド・リーグ戦に凱旋帰国し、帰国前にハワイで馬場、吉村道明らと合流最終調整に入った猪木を口説き落として自ら設立する新団体「東京プロレス」に入団させた、いわゆる「太平洋上猪木略奪事件」により東京プロレスが旗揚げしており、吉原・マツダの新団体は第3勢力となった訳です。

吉原・マツダ新団体の正式社名はインターナショナル・レスリング・エンタープライズ株式会社(通称・国際プロレス)で年明けの67年の旗揚げを目指し、日本プロレスから入門したばかりの64年東京五輪アマレスグレコローマン日本代表、杉山恒治(サンダー)、ラグビー日本代表の草津正武(=清正、グレート)、マツダの日体大荏原高校の後輩に当たる在米フリーのミスター鈴木(マティ)らが参戦、杉山、草津はメインイベンター修行の為にアメリカに修行に出されていました。

日本人メンバーは手薄でしたが、吉原とマツダは所属選手を持つのではなく、固定経費がかからないアメリカのプロモーターのような興行会社を目指していましたが、日本ではそのスタイルはまだ馴染まず、日本プロレスと同様に合宿所と道場を構えた選手丸抱えのスタイルを採用せざるを得なくなりました。

日本テレビ、三菱電機と言った強力なバックを持たない吉原は資金繰りに苦しむ生活になる訳です。

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