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2019年07月04日22:27

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猪木とビンス(455)最終章

85年ビッグ・ファイト・シリーズ第1弾から第2弾にかけて若手の登竜門である「第1回ヤングライオン杯」が開催されています。 

新日本プロレスでは若手の底上げという意味合いから旗揚げ2年後の74年から同趣旨のリーグ戦「カール・ゴッチ杯」(東スポ賞)を10月の「闘魂シリーズ第2弾」中に開催。

第1回は12月8日、刈谷市体育館で優勝決定戦が行われ、藤波が小沢正志(キラー・カーン)を破り優勝。優勝した藤波は翌75年6月、ヨーロッパ修行へ出発。西ドイツからメキシコ、ノースカロライナを経て78年1月23日、ニューヨークMSGでカルロス・ホセ・エストラーダをドラゴン・スープレックスホールド(飛龍原爆固め)で降しWWWFジュニア・ヘビー級王座を獲得、3月に凱旋帰国して「ドラゴンブーム」を巻き起こしました。

準優勝の小沢も76年に短期の西ドイツ修行に出て一旦帰国するも77年にメキシコ修行に出発、メキシコでモンゴリアン・ギミックのテムジン(テムヒン)・エル・モンゴルに変身しルードとして活躍。

78年にアメリカに渡り、キラー・カーンのリングネームでジョージア、フロリダ地区で活躍、80年暮れにWWF入りし、12月29日、MSGでいきなりボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦という抜擢を受けました。

81年5月2日、ニューヨーク州ロチェスターで試合中にアンドレ・ザ・ジャイアントの足をダブルニードロップで骨折差させるアクシデント(実際は体重増加のアンドレがロープワークの際転倒して足を骨折、カーンは咄嗟にトップロープからニードロップを放ち、反則負けて試合を終わらせたという)からの復活劇でアンドレvsカーンはWWFのドル箱カードとなり、カーンは全米にその存在が知られる程出世しました。

第2回は75年の同シリーズで行われ、12月7日、刈谷市体育館で藤原喜明が木村たかし(聖裔、健吾)を破り優勝。藤原も76年8月に短期で西ドイツに修行に出ていますが直ぐに帰国。80年1月にフロリダのカール・ゴッチの元へ修行に出てから「関節技の鬼」のイメージが定着してきました。

第3回も76年の同シリーズで行われました。この年の5月28日に後楽園ホールでデビューした佐山サトルが出場。

しかし、優勝したのは当時34歳、キャリア15年の魁勝司(北沢幹之)で、12月7日、岡山武道館での優勝決定戦で木村たかしを破っての優勝でした。

3年連続優勝決定戦のレフェリーは猪木が務めましたが「魁が優勝するようでは駄目だ。若手は何をやっているのか!」と激怒。カール・ゴッチ杯はこの年限りで中止になってしまいました。

しかし、2年連続優勝の木村は78年6月にロサンゼルス、メキシコ修行に出発。ロサンゼルスではパク・チューとしてヒールとして活躍、メキシコではエル・ファラオンを破りNWA世界ライト・ヘビー級王座を獲得しています。

それから9年、紆余曲折を経て「ヤングライオン杯」としてリニューアルされた訳です。
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