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2019年06月20日05:00

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猪木とビンス(440)最終章

82年闘魂シリーズ最終戦、11月4日、蔵前国技館大会はメインカード後ろ3つを変更した効果がありチケットの売れ行きが伸び12,000人、超満員発表の観客を動員。

当初のカードであれば満員は無理だったことは容易に想定出来ますし、おそらくはダミーカードではなかったかと思われます。 

メインイベントから外されたアブドーラ・ザ・ブッチャーは全8試合中、第5試合に出場、(タイガーマスクvs小林邦昭戦の前)バッドニュース・アレン&SDジョーンズとの黒い軍団で坂口&木村健吾&藤原喜明組と対戦。

全日本プロレス時代はブッチャーがこのポジションで試合をすること自体、先ず「絶対」と言っていいほどなく、ブッチャーの参加しているシリーズでブッチャーの試合をテレビ中継しなかったこともなかっただけにプライドは相当傷ついたと思います。

「新日本プロレスから請われて行ったのに…」そう思ったとしても不思議ではありません。

私はこの興行、会場で観戦しておりこのノーテレビの6人タッグも観ていますが、ブッチャーに覇気が感じられなかったのは2階席から見ていても明らかでした。

藤原はテロリストとしてオーバーする1年3か月前の「前座の鬼」時代でしたが、その実力の確かさはファンには浸透しており、ブッチャー相手にエプロンでコーナーポストに頭をぶつけられてもケロリとした表情でリングインし石頭をアピール、ブッチャーにヘッドバット合戦を挑み、なんとかブッチャーを怒らせようとしていましたが、ブッチャーは乗って来ず。 

試合は9分28秒、ブッチャーが地獄突きからのジャンピング・エルボードロップで藤原から体固めで勝ちましたが、自分から見たら格下の藤原にいくら挑発されても「その気」にはならなかったと思います。

ブッチャーと新日本プロレスの当初交わした契約は年間15週以上、年3回以上招聘すると言うものでしたが早くも1年でその約束は反故にされ、83年1月の新春黄金シリーズに呼ばれることはありませんでした。

新日本プロレスから全日本プロレスヘ移ったタイガー・ジェット・シンは81年7月の移籍後はコンスタントに毎年呼ばれ続け、輪島大士の国内デビュー戦の相手を務める等相応の活躍をし、87年11月にブッチャーが全日本へ復帰してからもブッチャーとタッグ結成、出戻りブッチャーより下のポジションでも文句を言うことなく試合に出場。

90年6月のスーパー・パワー・シリーズを最後に馬場と新日本プロレスの社長となった坂口との間で交わされたアンドレ・ザ・ジャイアントとのトレードで同年9月には新日本プロレスへ戻りましたが、通算8年11か月全日本で試合をし、初期の新日本在籍時(73年5月〜81年6月)の8年1か月を上回る長期に亘り全日本にいました。

やはりここが猪木と馬場の外国人に対する扱いの差で実質的にはシンの方が遥かに得をしました。
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