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2019年06月14日21:57

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猪木とビンス(435)最終章

引き抜き抗争、タイガーマスクブームで新日本プロレスに黄金時代が到来。81年年末の蔵前国技館での興行戦争(新日本プロレス12月8日、猪木&藤波組vsスタン・ハンセン&ローラン・ボック、キラー・カーンvsアンドレ・ザ・ジャイアント他)で11,500人超満員発表と75年12月11日、同所での猪木vsビル・ロビンソンのNWF世界ヘビー級選手権試合以来6年ぶりに満員となり、年末に負け続けていた全日本プロレスとの年末興行戦争にも勝利の手応えを感じ、「勝負あった」と思われた矢先…

12月13日、全日本プロレスの蔵前国技館「世界最強タッグ決定リーグ戦」公式戦最終試合、ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンク組vsブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカ組にブロディ組のセコンドとして3日前まで新日本プロレスのリングに上がっていたハンセンが姿を現し館内は騒然。

ハンセンは場外乱闘の際、テリーにウェスタン・ラリアットを見舞い戦闘不能に追い込み孤立したドリーがブロディ、スヌーカの集中砲火を浴び、21分41秒、ブロディのキングコング・ニードロップからの体固めの前にフォール負け。ブロディ&スヌーカ組が優勝。

試合後ハンセンはついに全日本のマットに足を踏み入れ、ファンクスを救援に入った馬場、鶴田と乱闘。全日本プロレスへの移籍がこれで確定しました。

馬場はアブドーラ・ザ・ブッチャーを引き抜かれたタイミングでタイガー・ジェット・シンと共にハンセンとも契約を締結し、ハンセンと新日本プロレスとの契約が切れる年末のタイミングでハンセンを投入したのです。

馬場の9回裏逆転満塁ホームランのようなハンセン引き抜きで興行戦争はまだ新日本プロレスが優位を保っていましたが引き抜き抗争に関しては馬場の政治力とバックについている日本テレビの豊富な資金力の前に新日本プロレスが完敗を喫しました。

翌82年に入り馬場はすぐさま「新春ジャイアント・シリーズ」の最終戦2月4日、東京体育館にてハンセンとのPWFヘビー級選手権試合を実現させ11,500人(超満員発表)の観客を動員しました。

一方のブッチャーはどうであったか?ブッチャーは81年6月24日、蔵前国技館での「創立10周年記念3大スーパーファイト」でハンセンと組み猪木&凱旋帰国の谷津嘉章(ダスティ・ローデスが来日キャンセル)組と対戦、谷津を痛めつけて2−1で勝利を収めた後、7月3日、後楽園ホールで開幕の「サマー・ファイト・シリーズ」でシリーズフル参戦を果たしました。

このシリーズは終盤戦にローラン・ボックが初来日、シリーズ最終戦8月6日、蔵前国技館のメインイベントは猪木はブッチャー、ボックでもなくマスクド・スーパースターと「賞金3万ドル&覆面剥ぎマッチ」で対戦し12分18秒、久しぶりのジャーマン・スープレックスホールドで勝利を飾りました。 

ブッチャーは10月の「闘魂シリーズ」で2度目のシリーズ参戦。しかし最終戦11月5日、蔵前国技館でのメインは猪木vsラッシャー木村のランバージャック・デスマッチで、ブッチャーはバッドニュース・アレンと組んでディック・マードック&ディノ・ブラボー組とのカードが組まれました。

アレンが負傷の為試合を欠場。ブッチャーはリング上での「公開抽選」でマードックかブラボーのいずれかとシングルマッチを行うことに。

同じ全日本プロレスからの移籍組であるマードックは黒人差別主義者として知られ、全日本プロレスでは「レスリングもロクに出来ないのに自分より扱いが上」のブッチャーに対して嫌悪感を示しており、それを察知した馬場は両者をシングルで対戦させるようなことはしませんでした。

75年12月のオープン選手権でもファン投票による両者のランキングから考えて公式戦が実現してもおかしくなかったですが実現せずに終わっています。

猪木は「やる方がお互いに嫌がっているカードこそ見ている客は面白い」という考えの持ち主なのでそもそもそういった配慮は初めからなく、ブッチャーは13,000人の大観衆の前で「二者択一」を迫られた訳です。

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