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2019年06月13日22:58

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猪木とビンス(434)最終章

ハルク・ホーガンのその後のレスラー人生を考えるとこの時の両天秤も納得な話で、後で書きますがスタン・ハンセンが全日本プロレスへ移籍した後、新日本プロレスのエース外国人の座に収まり、82年5月には猪木がシリーズを欠場すると日本陣営から参加。復帰した猪木のタッグパートナーを務め、ベビーフェイス人気が日本でも爆発。

同年夏に日本でも公開されたシルベスター・スタローン主演の映画「ロッキー3」にプロレスラー、サンダー・リップス役で出演するとその人気は全米に広がりました。

運も味方し、83年6月2日、蔵前国技館でのIWGP優勝決定戦では猪木をアックスボンバーでKOし優勝。「舌出し失神事件」が物議を醸す中、ホーガンの商品価値はどんどん上がっていきました。

そのホーガン人気をビンス・マクマホンが黙って見ている訳もなく、ホーガンは83年12月までAWAにおり、ニック・ボックウィンクルを毎回KO寸前に追い込み、次期AWA世界ヘビー級王者の最有力候補にいましたが、ビンスの誘いであっさりWWFに鞍替え。

84年1月23日、ニューヨークMSGでアイアン・シークを破りWWF世界ヘビー級王座を獲得、ビンスの全米マット界制圧の為の切り札としてNWA、AWAの各テリトリーに侵攻、侵略を図っていきました。

90年代に入ると旧NWAジム・クロケットプロを買収したWCWがWWFのオポジションとして勢いを増し、「月曜夜テレビ戦争」が勃発しますが、ホーガンはWWFとWCWを行ったり来たりし巨額のファイトマネーを手にすることになります。ビンスとは絶縁、和解を繰り返していますが、これは互いの利害一致、不一致によるものでしょう。

したたかで交渉上手の商売人。それがホーガンの生き様だったと言えます。 

さて、上田馬之助も新日本プロレス81年「ブラディ・ファイト・シリーズ」前半2週間の参加日程を9月3日で終えると翌9月4日にはマネージャーである本田治氏が全日本プロレスの大阪府立体育会館に姿を現し馬場へ挑戦表明。10月の「ジャイアント・シリーズ」から全日本プロレスへ参戦。タイガー・ジェット・シンとの凶悪コンビが全日本でも結成されました。

引き抜き抗争が追い風となったのは新日本プロレスの方で、9月23日田園コロシアムでは猪木vsタイガー戸口、アンドレ・ザ・ジャイアントvsスタン・ハンセンというカードが組まれ13,500人(超満員)の観客を動員。

10月9日の全日本プロレス蔵前国技館での創立10周年記念興行の前日、8日には新日本プロレスが蔵前国技館大会を後からぶつけました。

新日本プロレスは国際プロレスとの対抗戦(すでに団体は崩壊しており、名ばかりの対抗戦)で猪木vsラッシャー木村をメインに13,000人(超満員)の観客を集めました。

9日の全日本プロレスの興行はNWA世界ヘビー級王者リック・フレアーを初め、ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクのザ・ファンクス、ブルーザー・ブロディ、ハーリー・レイス、ブルーノ・サンマルチノ、ミル・マスカラス、シン&上田、ジミー・スヌーカら超豪華メンバーが集い同じく13,000人(超満員)発表。

外国人にかかるコストは明らかに全日本プロレスの方が大きく、利益は新日本が上回ったでしょう。

我が世の春を謳歌した新日本プロレスの新間寿営業本部長は「これはプロレスブームではない。新日本プロレスブームだ」と豪語していました。
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