77年3月4日、高崎市体育館で第4回ワールド・リーグ戦が開幕。凱旋帰国の吉田光雄が参戦してリーグ戦に新風を吹き込みました。
しかし、このリーグ戦色々と問題点も多く、結局この年を最後に打ち切られ翌78年からはWWWFとの提携路線強化により新日本プロレスの春の祭典は「MSGシリーズ」にリニューアルされています。
第1、2回優勝の猪木が前年に続き、またもシード扱い。前年はモハメド・アリとの世紀の大一番を控えており仕方ない部分もありましたがこの年はそれなりの理由が存在しませんでした。
外国人側のエース格であったジョニー・パワーズは「俺は猪木のNWF王座以外に興味はない」と3月11日、愛知県体育館での木戸修との公式戦を勝利で終えると一方的にリーグ戦からの離脱を宣言。
猪木もこれを受けて優勝決定戦が行われる3月31日、蔵前国技館でパワーズとのNWFヘビー級戦を決めてしまい、優勝決定戦出場を辞退しています。
その他、山本小鉄がエントリーされながらも参加せず。小鉄は75年の第2回大会では優勝候補のキラー・カール・クラップを回転エビ固めで破る金星を挙げ8勝7敗という勝ち越しで大活躍。
しかし前年の第3回では格下の永源遥、木戸修に負け、負傷を理由にリーグ戦を途中棄権。夏のアジア・リーグ戦でも開幕戦でタイガー・ジェット・シンに凶器で流血させられ秘密兵器バックドロップの前にフォール負け。
予選トーナメントで敗退していますがこの時の負傷を理由に星野勘太郎とのヤマハ・ブラザーズでエントリーしていたタッグ部門も棄権しています。
さらにこの後も翌78年4月の第1回MSGシリーズではバグジー・マグローに開幕戦で敗れ1回戦負けも敗者復活戦には出て来ず、同11月のプレ日本選手権でも開幕戦で上田馬之助に割れたビール瓶で額を割られて流血、フォール負けで以後の予選リーグを棄権。
等急激に弱くなった感がありました。本当に弱くなったかと言うとそんなことはなく79年1月21日には国際プロレスのリングで星野と組んでグレート草津、アニマル浜口組からIWA世界タッグ王座を奪うなど活躍しており、フロント業務多忙の為リング上が疎かになったかと思われますし、坂口との確執もあった、と聞いたこともあります。
また来日が発表されていたフレッド・ブラッシーが来日中止となりました。おそらく新日本初登場となるマスクド・スーパースター、あるいはニコリ・ボルコフのマネージャー兼務での参加かと思われ、実現していたら日本プロレス(62年)と新日本両方の「第4回」ワールド・リーグ戦に参加という記録がかかっていましたが残念ながら不参加。
当時58歳という高齢だったので無理はさせられませんでしたが両者リングアウト等でリーグ戦を混沌とさせることは可能だったかと思います。
結局、猪木、坂口、吉田、山本、星野、木戸、永源、パワーズ、Mスーパースター、ボルコフ、トニー・チャールス(当初発表はシン・リーガンだったが負傷により来日中止)、ロベルト・ソト、ベラ・ロドリゲス(エンリケ)、ブラッシーと14人のエントリーだったものが4人抜けて最終的には10人と過去最小規模となり、リーグ戦自体の興味を大幅に削がれることになりました。
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