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2017年06月08日23:27

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ファンタジープロレスの巨匠桜井康雄さん追悼(55)

猪木vsウィリエム・ルスカ戦の行われた76年12月9日の蔵前国技館は全日本プロレスの日大講堂との興行戦争でした。

新・隅田川決戦と言われた同日同時刻開催興行は全日本プロレスの日大講堂が大木金太郎、キム・ドク組vs馬場、鶴田組のインターナショナル・タッグ選手権試合、ビル・ロビンソンvsアブドーラ・ザ・ブッチャー、この年の10月15日に大相撲二所ノ関部屋の幕内力士から全日本入団を果たした天龍源一郎の断髪式、事前予告はありませんでしたがディック・マードックvsキラー・カール・コックス(ザ・スピリット)の豪華ラインナップで12000人発表(超満員)を動員。

新日本プロレスは10500人発表(満員)で全日本に軍配が上がりました。この日私は新日本の蔵前に行き、他の連載にも何回か書いたことがありますが、中学校の同級生で二所ノ関部屋の若者頭をやっていた佐賀光さんの息子のO君が日大講堂に行っていて翌日話をしたところ全日本は4階までぎっしり入っていたとのことでした。

新日本は満員発表でしたが1階の桝席後方と2階は空席もあり、馬場の物量攻勢の前に猪木が負けてしまいました。

アンダーカードも新日本はセミファイナルが坂口vsラリー・ヘニング、セミ前が木戸修vsリッキー・ハンター、その前が星野勘太郎、山本小鉄組vsストロング小林、小沢正志(キラー・カーン)組で外国人選手も前日の横浜文化体育館まで試合に出ていたパット・パターソンが欠場。

67年日本プロレス以来9年ぶりに来日した泥棒コンビの片割れ、リップ・ホーク(パートナーはスウェード・ハンセン、77年8月に全日本に来た他83年11月の第4回MSGタッグ・リーグ戦にはアンドレ・ザ・ジャイアントとのコンビで新日本に来日)は理由が発表されないまま途中帰国し、この日出たのはルスカ、ヘニング、ハンター、シェン・カラスの4人のみで、猪木vsルスカが二番煎じだったことを考えるとやはり新日本に勝ち目はなかったというのが実際のところでしょう。

モハメド・アリ戦で負った負債の関係でNETから予算を削られていた可能性も大で、アリ戦での借金が返し終わる79年までは新日本プロレスの外国人メンバーも若干時期によっては落ちました。

この年の年間興行数はアリ戦を入れて187と前75年の史上最多と言われた208を20大会以上下回り、全日本に興行数で負けました。当時は興行の数も人気のバロメーターでしたから、アリ戦で被った風評被害は大きかったと言えます。

以後、翌77年には12月に全日本が世界オープン・タッグ選手権を開催、ドリーとテリーのザ・ファンクスvsブッチャー、ザ・シーク組の抗争が空前の大ヒットとなり、78年には世界最強タッグ決定リーグ戦と改題されて全日本のドル箱シリーズとして定着。新日本プロレスも年末の興行戦争に関しては全日本に苦杯を喫し続けることになる訳です。

一方で、猪木の試合スタイルもアリキック、延髄斬り(ハイキック)腕ひしぎ逆十字といった異種格闘技戦で身に付けた打撃技や関節技がこの後本格的に試合に組み込まれるようになります。

S小林戦でのジャーマン・スープレックスホールドで受けた首へのダメージ、75年8月に発症した左膝蜂窩織炎(ウィルス性関節炎)、アリ戦で体重を100.5kgまで落としたことによるパワーダウン等猪木も30代前半で衰えが目立って来ました。

格闘技戦で会得した技の数々はその後の猪木を多いに助けたと言っていいかと思います。

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