83年世界最強タッグ決定リーグ戦第11戦は12月5日、福岡国際センター大会(観衆6100人発表、テレビ収録)。
メインイベントの公式戦はスタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ組vsミル・マスカラス、ドスカラス組の一戦。
一部ではマスカラスがハンセン、あるいはブロディに仕掛けたシュートマッチとされている試合です。
マスカラスはウエスタン・ラリアット封じとばかりハンセンの左腕をアームロックに決めていきました。
マスカラスはブロディの左腕も決めにいこうとしますがブロディはマスカラスの攻撃を受けようとしないです。
ハンセンはマスカラスのドロップキック、フライング・クロスアタック、ドスカラスとのツープラトンの編隊飛行、ダブルフライング・クロスアタックもきちんと受けて大きくバンプを取っています。
しかしブロディはマスカラスとの絡みになるとマスカラスのロープへの飛ばしをマスカラスの両腕をロックしたまま離さずに拒否。
これは後に新日本プロレスに戻って来たUWFの選手がロープに飛ばされるのを拒否するようなムーブとしてはっきり観客にわかるものではなく、何となくもつれ合っているようにしか見えません。
ブロディのビッグブートはマスカラスが足を持ってしまい決まらず。恐らく、顔面というか頭部を蹴られることをマスカラスが拒絶したかのような動きでした。
試合のフィニッシュは割りと唐突に決まりました。ブロディと絡み合っていたマスカラスが突然コーナーのハンセンに突っ掛かっていき、その間試合の権利がないドスカラスがリングイン。
ブロディは軽量のドスカラスをボディスラムで持ち上げるとそのままアバランシュ・ホールド。
レフェリーのジョー樋口は何事もなかったようにカウント3を入れて9分49秒、体固めでブロディがドスカラスに勝利。
ハンセン、ブロディ組は4戦4勝、フルマークの8点。マスカラス兄弟はこの段階で失点6の4点で完全に圏外へ。
この試合がシュートマッチかと言われたらそうではない、と思いますがブロディとマスカラスはお互いの攻めを受けようとはしなかったのは間違いないです。
ブロディはマスカラスに限らず、身体の小さなヒスパニック系人種を見下していたところがあり、マスカラスもそこは感じていたはずで、プライドの塊のようなマスカラスがブロディを嫌っていたのは間違いないところです。
試合序盤にハンセンにかけたアームロックが故意に「入れた」かどうかは不明で、コーナーにいたブロディがそれを自分なりの解釈で仕掛けてきたと判断した可能性はあります。マスカラスも身体が小さいからと若僧に舐められまいとして一瞬入れてしまったかも知れません。
メイン終了後、馬場はマスカラスと長時間、2人だけで話をしたそうです。偶発的なアクシデントや個人的な遺恨をビジネスにする猪木の新日本プロレスとは根本的に理念が違うのです。
恐らく、馬場からは「ある程度は受けてやってくれ」と言う要望が出されたかと思います。マスカラスはノーの返答だったでしょう。
これが引き金になったかわかりませんが、常連だったマスカラス兄弟の2人揃っての来日はこれが最後となり、マスカラスは84年は1回も来日がなく、次は85年10月のワールド・チャンピオン・カーニバルまで2年近く間隔が空いてしまい、ドスカラスに至っては85年11月には新日本へ行ってしまいました。
夢のシングルマッチはドリー・ファンク・ジュニアとタイガー・ジェット・シンが両者リングアウト。鶴田は上田馬之助に反則勝ち。
馬場は16分でロン・フラーに勝ち、天龍はバリー・ウインダムに首固めで勝利。ウインダムはこの時点でキャリアの浅さを露呈し勢いが徐々になくなっていました。
公式戦では阿修羅・原、マイティ井上組とザ・モンゴリアン、鶴見五郎組が行われM井上が鶴見をサマーソルトドロップからフォールし嬉しい初白星で2点。モンゴリアン、鶴見組は0点。
モンゴリアンも国際プロレスが存在していたらこのスタイルで呼ばれていただろうと思います。
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