83年4月22日は札幌中島体育センター大会(観衆8100人発表超満員、テレビ収録)
メインイベントは世界最強タッグリマッチ2回戦、ドリーとテリーのザ・ファンクスvsスタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ組の一戦。中1日おいての同一カードの再戦は選手にとってもタフな闘いとなりました。
場外乱闘でテリーの鉄柱攻撃により額を割って流血したブロディがリング下からチェーンを持ち出してテリーの首に巻き付け絞め上げようとしました。
静止に入ったレフェリーのジョー樋口にブロディは暴行、16分38秒、ファンクスの反則勝ち。
リマッチでのファンクスvsハンセン、ブロディ組の対戦は1勝1敗のイーブンとなり、ファンクスは3点、ハンセン、ブロディ組は2点。
セミファイナルは馬場とジプシー・ジョーのシングルマッチが組まれ馬場が僅か2分36秒、16文キックでフォール勝ち。
鶴田はハーリー・レイスと30分時間切れ引き分け、天龍vs石川敬士という好カードも組まれ、こちらは天龍がエビ固めで勝利。
このシリーズ、開幕戦から若手、中堅選手による「ルー・テーズ杯争奪リーグ戦」が行われていました。
参加選手は越中詩郎、三沢光晴、菅原伸義(アポロ)、百田義浩、百田光雄、冬木弘道、後藤政二(ターザン)、川田利明の8選手で総当たりリーグ戦を行い、1位と2位の選手により優勝決定戦が行われ、優勝者には海外修行の切符が与えられることになっていました。
生え抜きの新人を続々と輩出していた新日本プロレスに比べ、いわゆる「入門組」の若手が圧倒的に少ない全日本は、こういったリーグ戦は団体旗揚げ以来開催はありませんでした。
これはひとえにキャリア組の馬場とノンキャリアの猪木の考え方の相違で、以前にも書きましたが馬場と日本テレビは他のスポーツで名を為したキャリア組を重用していました。
しかし、松根社長、佐藤昭雄マッチメーカー体制になってからはノンキャリアの入門組にもチャンスを与えていこうという方針に切り変わっています。
ただ、若手の駒が少ないのは事実で、国際プロレスからの移籍組である菅原は29歳、百田義は36歳、百田光は34歳で、百田兄弟はお互いに試合はしたくないと両者不戦敗になっています。
ちなみに最下位は前82年10月4日に千葉・夷隅郡大原町消防署グラウンド特設リングでデビューした19歳の川田で7戦全敗に終わりました。
ルー・テーズ杯争奪リーグ戦と言えば、全く同名のリーグ戦が81年の国際プロレスでありましたが、こちらはテーズ所有のNWA世界ヘビー級ベルトを争う団体のトップクラスと外国人選手によるリーグ戦でしたが、予選を終了した段階で団体が崩壊し、決勝リーグ戦は行われずじまい。
こちらは趣旨が異なり、新日本プロレスのカール・ゴッチ杯、ヤングライオン杯と同じ趣でした。
リーグ戦1位は6勝1敗の越中、2位は5勝1敗1分の三沢で札幌大会で越中と三沢による優勝決定戦が行われました。
試合は特別レフェリーをテーズ自身が勤めました。越中が三沢にドリル・ア・ホール・パイルドライバー狙い、それを三沢が強引にリバース・スープレックスで跳ね上げようとしました。
越中は持ち上げられながらも腕を離さずそのまま前方回転エビ固めに丸め込み13分36秒、カウント3が入り越中が優勝を果たしています。
この試合は日本テレビでも放送され、三沢の追悼メモリアルDVD-BOXにも収録されており、日テレに現存する三沢の最古の映像かと思われます。
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