84年12月4日は高松市民文化センターにおいて、長州力のジャパンプロレスがチャリティー興行として旗揚げ戦を行っています。
何故高松か?昭和新日本プロレスファンの方であれば高松市民文化センターと岡山武道館がかなりの高確率でMSGシリーズやIWGPリーグ戦の日程に組み込まれ、且つ豪華カードが組まれてワールドプロレスリングの中継も頻繁に行われていたのはご存知かと思います。
高松、岡山のプロモーターである瀬戸内プロ企画はジャパンの代表である大塚直樹が新日本プロレスの営業部長をしていた時に懇意だった先で、大塚が新日本から独立し、全日本プロレスと提携した際、ジャパンの前身である新日本プロレス興行の株主になっていたこともあり、瀬戸内プロは全日本へと鞍替えをすることになります。
会場を押さえるのは通常半年以上前であり、おそらく新日本のMSGタッグ・リーグ戦用に借りていたかと思われ、前日の12月3日に新日本の岡山武道館が入っていたところから、当初は岡山、高松のコースであったかと思います。
瀬戸内プロ企画にしても長年儲けさせてもらった新日本をいきなり切ることも出来ず、3日岡山は新日本、4日高松はジャパンの開催になったようです。
敢えて付け加えれば、ダイナマイト・キッド、デービーボーイ・スミスの全日本初参戦となった11月16日金曜日の後楽園ホールでのチャリティー興行もジャパンが新日本プロレス興行時代に第5回MSGタッグ・リーグ戦の開幕戦の為に借りていた可能性が高いです。
ジャパンと提携をしたことで翌85年から全日本プロレスの地方巡業のコースの組み方が変わっていきました。
85年で言えば、高松市民文化センター大会は6月8日と12月6日の世界最強タッグ決定リーグ戦に2回組まれ、6月はキッドがマイティ井上を破ってNWAインターナショナル・ジュニア・ヘビー級王座を獲得。12月には公式戦で長州、谷津組がキッド、スミス組に反則負け。
岡山武道館は高松ほど恵まれてはおりませんが、86年10月9日には長州がニキタ・コロフを反則勝ちで破りPWFヘビー級王座を防衛しています。
やはり、長州が主役のカードをメインに持って来ることが多かったです。
瀬戸内企画とは無関係ですが、例年2月の雪祭りの時期に新日本の興行が組まれていた札幌中島体育センターは全日本とジャパンが提携していた85、86、87年の3回は全日本プロレスが興行を開催。
長州達が新日本プロレスにUターンした翌年の88年からは再び新日本が雪祭り興行を再開させています。
西の聖地、大阪府立体育会館も老朽化が進み、蔵前国技館の後を追うように85年3月の大相撲春場所を最後に取り壊しとなり建て直しが決まりました。
大相撲は86年春場所は大阪市中央体育館(10000人収容)で行いましたが、ジャパンプロレスは新日本時代に興行を主催し平凡なカードを提供されて満員に出来なかった大阪城ホールへ再進出。
ジャパンプロレスは自主興行を4回開催し、全日本も6月4日、大阪城ホール大会を初開催しました。
さて、旗揚げ戦はチャリティー興行「〜プロローグ〜維新の夜明け」と題して行われ、3500人(満員)発表の観客を動員しています。ジャパン所属選手は新日本の9月20日、大阪府立体育会館以来の試合でした。
同日に全日本プロレスは福岡国際センターで最強タッグの興行があり全日本勢は不参加。
試合数が少ない分、ファンの子供をリングに上げての騎馬戦などアトラクションが行われています。
第1試合は新倉史裕が若手の笹崎伸司を逆さ押さえ込みで破り、第2試合は寺西勇が仲野信市にジャーマンで勝利。
第3試合は小林邦昭が保永昇男をフィッシャーマン・スープレックスホールドで撃破。
セミファイナルは谷津嘉章、アニマル浜口組が永源遥、栗栖正伸組と対戦。谷津が栗栖を片エビ固め。
メインイベントは長州が謎の怪覆面Xとのシングルマッチ。Xは赤のストロング・マシンマスクに赤のTシャツの下にプロテクターを装着。
タイツとシューズも赤で統一したまさにマシンのパロディーというか、マシンをバカにしたようなマスクマン。
試合は僅か1分35秒で長州がサソリ固めによりレフェリーストップ勝ち。
Xはプロテクターで体型を誤魔化していましたがジャパンの所属選手にはいない体型で、その正体が取り沙汰されましたが、この日の全日本プロレスの福岡国際センター大会を欠場した渕正信の変身であると言われています。
渕は馬場から「行って来い」とマシンマスクとコスチューム一式を渡され、自分の地元である福岡大会を欠場させられて当日高松入りした、らしいです。
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