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2016年11月16日23:12

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猪木とビンス(398)

ダイナマイト・キッド、デービーボーイ・スミスの全日本プロレス電撃移籍の報を聞かされた新日本プロレスの坂口副社長は血相を変えてすぐさま会見が行われた後のキャピトル東急ホテルへ直行。

坂口は万が一、馬場を殴ることになったら、と腕時計を予め外して行ったとのことです。穏健派で馬場も信頼していた坂口は間違ってもリング外で暴行事件を起こすようなタイプではないですがそれだけ頭に血がのぼっていたということです。

会見が終了した後のラウンジには馬場がいつものようにゆったりと構えて座っており、マスコミシャットアウトのもと、馬場と坂口は約1時間20分に亘って会談。

会談と言っても実際は馬場は葉巻を燻らせて、ほとんど黙り込んでいたそうです。やはり百戦錬磨の馬場の方が全てにおいて上回っていました。

馬場の言い分としては、「NWA、AWA連合軍とWWFのレスリング・ウォーが原因で起きたことで、引き抜きじゃないんだよなぁ」という主張でした。

この年2月にビンス・マクマホンがNWAの総本山といわれたあるミズーリ州セントルイスに乗り込んで興行戦争を仕掛けたのを皮切りにビンスはAWAの本拠地イリノイ州シカゴにも進出。

7月にはジム・バーネット、ジャックとジェリーのブリスコ兄弟が所有していたNWAジョージアの株式をビンスが取得。

そして8月のカルガリー(スチュ・ハートは勿論NWAのメンバーであった)の興行権の買収と僅か半年でローカルテリトリー制だったアメリカマット界の勢力分布図はガラッと変化しました。

馬場はNWAのジム・クロケットとAWAのバーン・ガニアとを仲介、全米レスリングウォーはNWA、AWA連合vsビンスのWWFという図式になりました。

その功績が認められたか、あるいは米国内に資力のあるプロモーターがいなくなったか、この年の8月のNWA総会で第一副会長に選ばれています。

ちなみにこの年WWFがNWAを脱退した、という記述の文献もありますが、これは誤りでおそらくWWFが王座に「世界」の文字を復活させたからそのように書かれたかと思いますが、NWAは個人加盟であり、5月に食道癌で亡くなったビンス・シニアは会員でしたが、その死によって資格を喪失しただけで、息子のビンスは最初からメンバーでも何でもなく、父シニアの体調不良でWWFの実権を握り、業界の商慣習や不文律を次々と破っていました。

馬場の言うNWAとはつまり自分のことでした。自分がNWAの代表としてビンスと契約したがらないキッド、スミス売り込みがあったから、受け入れただけ。これは全米の影響でそうなっただけであり、こちらから仕掛けたのではないから引き抜きではないと。

実はこの時第5回MSGタッグ・リーグ戦に立会人としてビンスが来日しており、坂口はビンスにも協力を依頼して裁定を仰いでいます。

カルガリーはWWFが買収したのだから、オーナーであるビンスは傘下選手であるキッド、スミスが全日本に行くことを阻止して欲しい。

新日本プロレスはビンスが9月にハルク・ホーガンを伴って来日した時に推定年間50万ドルと言われる業務提携料という名目の契約金を支払わされています。

ビンスにその位仕事をしてもらったとしても当然のアドバンスを払っていますが、ビンスは新日本の為に動こうとはしませんでした。

それもそのはずで、17歳でイギリスからカナダに渡り、スチュ・ハートに内弟子に入ったキッド、この年の10月7日にカルガリーでスチュの末娘ダイアナさんと挙式をしたばかりのスミスがスチュと書面による契約など交わしている訳もなく、興行権を引き継いだWWFには2人を拘束すべき手段を有していなかったので移籍を止めることは出来なかったということです。

坂口はキッド、スミスには契約違反として訴訟を起こす方向だとは言いましたが、全日本の選手を報復の為に引き抜くことはしない、とコメントしています。

この時はWWFに背を向けたキッド、スミスでしたが、翌85年暮れにはWWFと契約、88年末までブリティッシュ・ブルドッグスとして活躍しました。
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