84年10月9日、大塚直樹が代表を勤める新日本プロレス興行株式会社と長州力の個人事務所であるリキプロダクションが合併し「ジャパンプロレスリング株式会社」に商号が変更されました。
これでこの年にはUWF(ユニバーサルプロレスリング株式会社)に続き、新日本プロレスから派生した2つ目の団体が誕生したことになります。
10月12日は坂口の地元である久留米・福岡県立体育館(観衆3700人満員発表)でのテレビ生中継。メインは猪木、坂口、木村健吾組vsマスクド・スーパースター、バッドニュース・アレン、ブライアン・ブレアー組。
試合は坂口が地元の声援を受けて大ハッスルし、猪木に巧みなアシスト。猪木がブレアーを延髄斬りから体固め。
ストロング・マシンズが初のテレビマッチでのセミファイナルに出場、マシン1&2号と藤波、ブラック・キャット組と対戦。
マシン軍団と藤波はこれが初対決となりましたが1号がキャットをマシンラリアットから片エビ固めでマシンズの勝利。
翌週の10月19日、上越大会でNWA世界ジュニア・ヘビー級王座を賭けて対戦するザ・コブラとブラック・タイガーは両者リングアウトに終わっていますが、カナダ・カルガリーに遠征していたヒロ斉藤が帰国しコブラに宣戦布告をしています。
斉藤は78年8月26日、飯山市体育館での魁勝司戦でデビュー、前田日明、平田淳二、さらに一度新日本プロレスから離れ、俳優の菅原文太のもとで芸能活動をして新日本に戻り再デビューしたジョージ高野らと同期にあたります。(他に退団した原薗喜由紀も同時期デビュー)
しかし、身体が小さかったこともあってか、出世は遅れ、81年7月にようやくメキシコに遠征。島流し的に出された感じで83年にカルガリーに転戦していました。
人材が豊富だった時は余剰人員的扱いだった斉藤でしたが大量離脱がありコブラのライバルとして帰国命令が下された訳です。
前週の開幕戦での武藤敬司、蝶野正洋に次いでこの日野上彰(当時18歳)がデビュー。武藤と対戦し逆エビ固めでギブアップ負け。
翌日の10月13日には、8月31日の南足柄大会でデビューしたばかりの笹崎伸司とレフェリーのタイガー服部がジャパンプロレスへ移籍。笹崎はこのシリーズも巡業に帯同していましたが8日の千葉市稲毛マリンピア4階スポーツ広場特設リングでの武藤戦を最後に姿を消していました。
服部は元々フロリダでマサ斎藤、ミスター・サト(高千穂明久=カブキ)のマネージャーをしていてM斎藤の明治大学レスリング部の後輩にあたり、レフェリーとしての日本初舞台も全日本プロレスの80年世界最強タッグ決定リーグ戦でした。
新日本へは82年に引退した田中米太郎の後釜としてレフェリー兼外国人係として入団していましたがM斎藤と長州の関係から維新軍寄りの人物と見られていました。
この10月13日、長崎県対馬厳原町体育館からヒロ斎藤が試合に出場しBキャットを鮮やかなジャーマン・スープレックスホールドで撃破。
小柄ながら基礎のしっかりしたレスリングをしていたH斉藤はジャーマンのフォームの美しさには定評がありました。
また、この日外国人留学生のロッキー・イヤウケアが日本デビュー戦を行い、荒川真(ドン荒川)に逆エビ固めで敗戦。
イヤウケアはその名前の通り、全日本プロレスの常連外国人選手であったキング・イヤウケアの息子。
流れからいっても全日本に預けるのが筋、と考えるのが普通ですが、馬場は無名のノンキャリアの外国人留学生は採用したことがなく、他のプロスポーツでの実績があって即戦力になる外国人しかリングに上げていませんでした。(90年代に入ってリチャード・スリンガーを受入するようになった。ラジャ・ライオンは色々な意味で別格)
また、ハワイのマット界事情も全日本と懇意だったロード・ブレアース(初代PWF会長)とエド・フランシスが興行を開催していたのは79年までで、
その後は新日本との関わりが強いピーター・メイビアが興行地盤を引き継いでおり、メイビアが82年に血液の癌に冒されて45歳の若さで急死した後は(下半身全体に入れた刺青が原因とされている)リア・メイビア未亡人が興行を開催、ピーター存命中から仲の良かった坂口がリア未亡人に協力していた関係がありました。
先シリーズの最終戦で猪木に挑戦し敗れ、その後新日本プロレスへ弟子入りを果たしたアノアロ・アティサノエはこのつながりで日本にやって来たという訳です。
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