新日本プロレスを退団したタイガーマスクは84年に入ると活動を再開。
1月11日、テレビ朝日「欽ちゃんのどこまでやるの!?」に素顔で出演、見栄晴にプロレス技をかけて見せ終始笑顔で対応しました。
前年8月10日に出演をドタキャンした時の穴埋め出演で、この時リング復帰を示唆する発言しています。
1月14日、都内ホテルで大塚直樹氏が代表を務める新日本プロレス興行株式会社の設立記念パーティーが行われました。
パーティーには前年新日本プロレスを退職した新間寿営業本部長が出席、久々に公の場に姿を現しています。
その席で新間は「昨年11月にビンス・マクマホン・シニアが日本(新日本の第4回MSGタッグ・リーグ戦の立会人として最後の来日)に来た時、ミスター・シンマがいなかったのが残念だった、と言ってくれた。近いうちにビンスに会いにニューヨークに行く」とコメント。
この新間発言から、WWFの協力を得てタイガーマスクと新団体を立ち上げるのでは?という噂が出回りました。
ビンス・マクマホン・シニアはこの時食道癌を患い入退院を繰り返していました。
病気療養中のビンス・シニアに代わり、ビンス・マクマホン・ジュニア(以下ビンス)がWWFの実権を握り、83年から本格的に活動を開始します。
偉大なるプロモーターの3代目ビンスは父親のもとでリングアナウンサー兼マネージャーとして仕事を開始。
ビンス親子はビジネス上では不仲であり、ビンスはWWFの運営会社であったキャピトル・レスリング・コーポレーションの株式を、父親から譲渡でなく買収。
キャピトル・レスリング・コーポレーションの共同オーナーでもあったゴリラ・モンスーン、フィル・ザコ(フィラデルフィアのプロモーター)の持っていた株式も妻のリンダと共に買い取り、ビンス夫妻の100%出資でコネチカット州スタンフォードにタイタン・スポーツ株式会社を設立しました。
ビンスは84年から全米制圧に進出、そのパートナーになったのはハルク・ホーガンでした。
83年12月26日、ニューヨークMSGで通算5年10か月王座に君臨したボブ・バックランドがアイアン・シークのキャメルクラッチにTKO負けし王座転落した時、次の挑戦者がホーガンであることは伏せられており、当初はバックランドがリターンマッチを行うと発表されていました。
が、これはダミーでした。
ホーガンは83年一杯までAWAと契約しており、ニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座のトップコンテンダーにいました。
ビンス・シニア時代のWWFとAWAは協力関係にあり、お互いに選手のトレードをやっていました。
AWA世界タッグ王者チームだったアドリアン・アドニスとジェシー・ベンチュラがWWF入りしたのも引き抜きとか生臭い話ではなく、交流の一環であり、ホーガンのAWA入りも同様でした。ホーガンは新日本プロレスとも個人契約を結んでおり、定期参戦が可能だった訳です。
しかしビンスの代になり交流はピリオドを打たれ、ビンスの密命を受けたホーガンはAWAから引き揚げ、84年初頭からWWFに復帰。
アイアン・シークのWWFヘビー級王座にホーガンが挑戦するとリリースされたのは84年1月10日過ぎの話でした。
1月23日、ニューヨークMSGは22000人のソールドアウトとなり、ホーガンは8分52秒、レッグドロップからの体固めであっさり勝利して王座獲得。
デザインが一新されたベルトを巻き、ホーガン王座獲得の瞬間からWWFヘビー級王座に「世界」の2文字が復活。
71年8月にNWA加盟により世界の2字を削除して以来12年半ぶりに世界を名乗りました。
これは即ち、巨大カルテルであるNWAに対してのビンスの宣戦布告でした。
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