84年1月6日、後楽園ホール大会(テレビ生中継)は大塚直樹が代表を務める新日本プロレス興行の初主催興行として開催されました。
メインイベントは猪木、藤波組vsダスティ・ローデス、バディ・ローズ組。ローズは本家のローデスとのタッグで気後れしたか猪木が延髄斬りからの体固めでローズを難なく撃破しています。
WWFジュニア・ヘビー級王座決定リーグ戦はザ・コブラと小林邦昭は両者リングアウトの引き分け、ダイナマイト・キッドは寺西勇をダイビング・ヘッドバットから体固め。
長州、アニマル浜口組はアブドーラ・ザ・ブッチャー、バッドニュース・アレン組と対戦しフェンスアウトにより反則勝ち。
スローな動きのブッチャーに対し野毛道場育ちのアレンが苛立つ場面もあり、誤爆を繰り返し、仲間割れ。黒い軍団に亀裂が生じています。
新日本プロレス興行の参入で新日本プロレスは後楽園ホール大会をこの年から増加させていきます。
新日本は全日本プロレスと日本テレビ、後楽園球場との関係から後楽園ホールの使用頻度は全日本と比較してさほど高くなく、1シリーズ1回程度で開催のないシリーズもありましたが利便性と安定的な集客力がありましたので、
2回開催するとしたら1回は新日本興行への売り興行というスタンスでした。
また、新日本興行は3月21日、当時国内最大収容を誇る屋内多目的ホールである大阪城ホール(最大収容人員16000人)で新日本プロレスの興行を行うことを発表しています。
東京ドーム、横浜アリーナが88年の開館、さいたまスーパーアリーナは00年代に入ってからですのでこの時点では大阪城ホールが日本武道館の14214人を抜いて日本一。
西の聖地大阪府立体育会館が老朽化でこの年一杯で閉館、建て直してのリニューアルが87年の大相撲春場所であった為、プロレス団体が大阪城ホールへシフトしていくのは自然な流れでしたが、常打ちにするにはやや大き過ぎる、という声があったのも事実でした。
大相撲は大阪市中央体育館(10000人収容)を代替会場として86年の春場所を開催しており、プロレス界が大阪城ホールへの進出を一早く決めたのは評価されました。
猪木としても新日本の大会に変わりないものの、退職した元部下が作った別会社に大阪城ホールに進出されたのでは内心面白くはなかったと思われます。
新日本興行の大塚社長は社内クーデターの責任を取らされての退職と言われていますが、後に「退職金もちゃんともらった。円満退社だった」とコメントしています。
1月13日、横浜文化体育館大会のテレビ生中継ではメインで猪木、藤波組vs長州、浜口組の正規軍対維新軍の頂上対決が組まれました。
昭和の観客のマナーの悪さは現在の比ではなく、本日記及び別連載「ジャンボ鶴田怪物伝説」にも何回となく書いていますが、
この日も生中継ということでテレビに映ろうとした子供のファンでもみくちゃにされて猪木、藤波が入場。
観客が入場して来た猪木に紙テープを投げつけ、猪木がその紙テープで指を切って流血するアクシデントが起きました。
猪木は入場時にぶちギレし椅子を持って通路のファンを蹴散らしました。
倍賞美津子さんと離婚してからの猪木は粗野な言動や行動が目立ちましたが少なくともまだこの段階ではそういう部分を観客に見せることはなく、その狂気性を初めてファンに見せた瞬間でした。
猪木はこれで気分を害したか、メインの内容は一気にグレードが落ち、藤波が長州、浜口のハイジャック・パイルドライバー、長州のリキラリアットで僅か6分44秒にフォール負け。試合は期待外れに終わりました。
リーグ戦は小林邦昭とキッドが両者フェンスアウトの引き分け、コブラは寺西の粘りに遇いましたがエビ固めに丸め込んで逆転勝ちを収めています。