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2016年06月08日23:43

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猪木とビンス(307)

84年新春黄金シリーズ開幕戦の1月1日後楽園ホール大会のメインイベントは久々の猪木とダスティ・ローデスのシングルマッチ。

両者のシングル戦は80年5月21日、宇都宮・栃木県体育館での第3回MSGシリーズ決勝リーグ戦以来の対戦でこの時は猪木が8分44秒リングアウト勝ち。

このMSGシリーズの優勝決定戦(6月5日蔵前国技館)で、スタン・ハンセンとハルク・ホーガンの2人がかりで攻撃された猪木をローデスが救出に入りました。

そこからローデスは日本でもベビーフェイスとなり猪木とタッグを結成、直近の来日となった82年の第5回MSGシリーズではディック・マードックとのテキサス・ジ・アウトローズで3月31日、愛知県体育館で猪木、藤波組と対戦、猪木の負傷箇所である左膝を集中攻撃。試合は猪木、藤波組の反則勝ちになりましたがダメージを負った猪木は翌4月1日、蔵前での優勝決定戦を欠場し棄権となりました。

試合は猪木がローデスに押され気味でしたが13分51秒に両者リングアウトとなっています。

セミファイナルは藤波、前田日明組vs長州、谷津嘉章組で長州が前田にリングアウト勝ち。

巻き返しを狙うアブドーラ・ザ・ブッチャーは坂口とのシングル戦、しかし内容は相変わらずで7分56秒、両者リングアウトの引き分けに終わっています。

2人揃っての来日は初となる注目のダイナマイト・キッド、デービーボーイ・スミス組のザ・ブリティッシュ・ブルドッグスは小林邦昭、寺西勇の維新軍と対戦。

前回の来日の時は髪の毛を伸ばしていたキッドでしたがまたも坊主頭となり、筋肉が驚くべきほどビルドアップされ、ヘビー級戦士の体格となっていました。

高速ブレーンバスター、自らジャンプしてのバックドロップ等、剃刀ファイターぶりに磨きがかかり最後は寺西をダイビング・ヘッドバットから体固めに決めて勝利。

WWFジュニア・ヘビー級王座決定リーグ戦はザ・コブラがブラック・タイガーを体固め、ブレット・ハートは高田伸彦をエビ固めに丸め込んでの勝利。

タイガーマスクがいなくなったことで一番精彩がなくなったのはブラック・タイガーではなかったかと思います。

元日決戦の模様は翌2日の午後7時から2時間枠で新春プロレススペシャルとして録画中継されています。

1月6日の後楽園ホールのテレビ生中継の大会は「新日本プロレス興行設立記念」と銘打たれて行われました。

言うまでもなく後のジャパン・プロレスですが、前年8月に起きた猪木のアントンハイセル事業への新日本プロレスの運転資金流失疑惑に起因した社内クーデターで「改革派」にいたのが当時営業部長だった大塚直樹。

大塚は初代リングアナウンサーを勤めた新日本生え抜きの営業マンで、猪木のマネジメントが主体であった新間寿営業本部長を支えて営業のトップとして活躍していました。

社内クーデターはテレビ朝日の三浦甲子二専務の鶴の一声で3か月も持ちこたえずに終息しましたが、猪木の代表復帰で改革派は立場が弱くなりました。

「なあ、大塚、外からプロレスというものを見てみるというのもいいんじゃないかンムフフフフ」

と猪木が言ったか定かではありませんが、大塚は会社を追われることに。

猪木は「大塚、これをやるよ」と新日本プロレス旗揚げ時に設立登記をしたままで休眠会社になっていた別法人「新日本プロレス興行株式会社」(資本金300万円)の定款と登記簿謄本を渡したと言います。

大塚は83年12月一杯で新日本プロレスを退職、新日本プロレス興行の代表取締役となりました。

大塚について来たのは営業部隊の精鋭、加藤一良、伊藤正治(元新日本のレスラー)等で大塚の良き理解者で新日本のタニマチでもあった千葉県君津市で家具の会社を経営する竹田勝司が顧問に就任。

新日本興行は新日本から年間50興行位の興行を買い取り開催する契約を結びました。

一方で大塚代表は新日本の名前はついているが独立した別の興行会社であり、新日本だけではなく、他団体の興行も買うというスタンスを取りました。

この大塚の方針が後々大きな問題に発展してくることになる訳です。
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