mixiユーザー(id:21258650)

2016年06月04日09:51

576 view

ジャンボ鶴田怪物伝説(285)

82年世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦は12月13日、蔵前国技館で行われました。

この日は3大公式戦が組まれています。

まずは天龍、阿修羅・原組vs上田馬之助、スーパー・デストロイヤー組。

原とSデストロイヤーはこのシリーズが日本では初対決となりましたが、因縁浅からぬ関係がありました。

国際プロレス末期の80年11月、ヘビー級戦士に転向すべく吉原社長が社運を賭けて原をルイジアナ、オクラホマのミッドサウス地区へ修行に出しました。

ミッドサウス地区はオクラホマのプロモーター、レロイ・マクガークから地盤を強引に奪い取ったビル・ワットのMSWA(後にUWFに名称変更、勿論日本の同名団体とは別)のテリトリーでした。

原は約5か月いましたが、その時にSデストロイヤーが使っていた雪崩式ブレーンバスター(スーパープレックス)を見て、日本では誰も使っていないからとこれを身に付け、東京12チャンネル(テレビ東京)のレギュラー放送が打ち切られ致命的ダメージを負った国際の救世主として81年4月、凱旋帰国。

公開練習で雪崩式ブレーンバスターを披露、その写真は東スポに掲載されました。

ところが、これを見た新日本プロレスの木村健吾(健悟)がまんまとパクり、原の凱旋試合の1日前、4月17日、鹿児島県立体育館での藤波とのIWGPアジア・ゾーン予選で藤波をトップロープに上げ、いきなり雪崩式ブレーンバスターを敢行。

しかし因果応報というやつか、木村健の雪崩式は空中で藤波に身体を預けられて自爆、そのまま体固めでフォール負けしてしまいました。

原の凱旋試合は翌18日、後楽園ホールでスティーブ・オルソノスキーを相手に行われ、原が雪崩式ブレーンバスターをきちんと決めて体固めで勝っています。

ですが、単発番組となった国際プロレスアワーでこの試合は放送されたのは5月3日深夜の関東地区のみで原の凱旋はカンフル剤と成らず国際は同年8月で興行活動停止。

ヘビー級戦士として頑丈な肉体に変身した原は全日本に入団し第4のポジションで活躍、原にとってSデストロイヤーは恩人でもありました。

試合は原がSデストロイヤーにセカンドロープからのダイビング・ラリアット、さらに天龍が延髄斬りを決め7分19秒、天龍がSデストロイヤーを片エビ固めで勝利。

天龍、原組は7失点の5点で終了、上田、Sデストロイヤー組は1両リン5敗の0点に終わりました。

試合後、国際プロレス崩壊後西ドイツ・ハノーバーに遠征していた鶴見五郎が乱入し原を襲撃、上田との共闘をアピールしています。

セミファイナルは6点の馬場、鶴田組vs7点のハーリー・レイス、ディック・スレーター組、レフェリーはルー・テーズでした。

レイスはパンチ、ニードロップで馬場を追い込むとスレーターも鶴田にエルボーを見舞っていきました。

馬場がコーナーに捕まり、スレーターは馬場の頭部をレイスの石頭に叩き付けようとしましたが馬場は逆にスレーターの頭をレイスに叩き付けて同士討ち。

大きくよろけるスレーターを捉えた馬場は河津落としから17分47秒、片エビ固め。馬場、鶴田組は8点でメインの結果待ち、レイス、スレーター組は5失点の7点でリーグ戦を終了。

81年2月にテキサス州郊外で交通事故に遭ってからのスレーターは明らかにコンディションが悪化しており、4強の中に入ると一段落ちたことは事実でした。

メインイベントは7点のドリー・ファンク・ジュニア、テリー・ファンク組vs8点のスタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ組。

試合は超獣コンビが力にものを言わせて押しまくり、ファンクスは防戦一方。

ハンセンがテリーを場外でウエスタン・ラリアット、1年前の悪夢が甦ります。

孤立したドリーをブロディが羽交い締め、そこへハンセンが黒皮のサポーターをずらしてとどめとばかり助走をつけてのラリアット。

しかしこれはレフェリーのジョー樋口に誤爆、ハンセンとブロディは2人がかりでドリーを袋叩き。入って来たサブレフェリーのテーズに超獣コンビは暴行。

テーズはゴングを要請して12分30秒超獣コンビの反則負けを宣告、ファンクスが9点で優勝、大本命と言われたハンセン、ブロディ組は2反則負けによる4失点8点で馬場、鶴田組と並んで2位に終わりました。

結果ボロボロにはなりましたが翌年引退を控えたテリーが最後(になるはずだった)の最強タッグ優勝を飾った訳です。
9 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2016年06月>
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  

最近の日記