82年7月4日、アメリカ独立記念日にジョージ州アトランタ・オムニセンターでNWA世界ヘビー級王者リック・フレアーとWWFヘビー級王者ボブ・バックランドが夢の対決ともいうべきダブル・タイトルマッチで対戦しています。
当時のWWFはNWAの傘下団体の一つであり、71年8月にNWAに加盟をしたビンス・マクマホン・シニアが王座から世界の2文字を削除しています。
ブルーノ・サンマルチノが王者だった時代はダブルタイトル戦はなく、サンマルチノが無冠だった(WWWF王者はペドロ・モラレス)時、73年6月15日に一度セントルイスのリングに上がり、NWA世界王者ハーリー・レイスに挑戦し1- 1から60分時間切れ引き分けとなった記録が残っています。
NWAとWWWF(当時)の両王者が初めてダブル・タイトル戦で対戦したのは78年1月25日、フロリダ州マイアミビーチ・オレンジボウルでのハーリー・レイスvsスーパースター・ビリー・グラハムの一戦で1-1から60分時間切れ引き分け。
グラハムは同年2月20日、ニューヨーク・MSGでバックランドに敗れ王座転落。
新王者バックランドの初防衛戦というのが実はその3日後にフロリダ州ジャクソンビルで行われたレイスとのダブル・タイトル戦でこの試合は60分1本勝負で時間切れ引き分けでした。
短期間に2度も実現したダブル・タイトル戦がいずれもフロリダで行われたのは当時のNWA会長がフロリダのプロモーター、エディ・グラハムだったからというのがその理由でしたが、WWWFヘビー級王者にバックランドを推したのはビンスの他にグラハム、それに元NWA会長のサム・マソニックでした。
これは「バック・トゥ・ザ・レスリングプロジェクト」と呼ばれています。
NWA世界ヘビー級王者は各傘下テリトリーを回り、各地のエースの挑戦を受ける訳ですからいわば引き立て役。ルー・テーズの王者時代から12年経過し求められるのはヒールチャンプでした。
バックランドは76年にはレイスを破ってミズーリ州ヘビー級王者になり、次期NWA世界ヘビー級王者最有力候補でしたが、顔が童顔で体型もお尻が突き出た感じでどう見てもベビーフェイス中のベビーフェイス。
よってNWA世界王者の人選からは漏れ、バックランドに負けたヒールのレイスがテリー・ファンクを降し王座返り咲きを果たしました。
しかしバックランドは学生時代にアマレスNCAA王座になった実績もありレスリングの確かさには定評がありました。
このままにしておくにはあまりに勿体ない人材とマソニックはビンスにWWWF王者としてバックランドを推薦しました。
バックランドは王者になった当初、テーズのような黒いロングガウンを着用して入場して来ておりました。
バックランドが王者になってからNWAとWWWFは急接近。同年4月24日のMSG定期戦にはレイスが初登場、スティーブ・トラビスを破り王座防衛。12月18日にも再登場したレイスはトニー・ガレアを降しています。
翌79年にW(ワイド)の1文字を取りWWFに名称変更してからは3月25日、カナダ・トロント・メープルリーフ・ガーデンでAWA世界ヘビー級王者ニック・ボックウィンクルとバックランドのダブル・タイトルマッチが実現、40分の激闘の末両者リングアウトとなっています。
80年に入ると9月22日にはWWFの本拠地であるMSGでレイスとバックランドがダブル・タイトル戦で激突、35分41秒、バックランドが反則勝ちを収めましたがルールによりタイトル移動なし。
11月7日、セントルイス・キールオーデトリアムでレイスとバックランドは再戦していますが、NWAの総本山キールでは両者は同格とは見なされず、WWFのベルトは賭けられず。
試合は1-1からレイスが反則勝ちで防衛し、スコアの上では1勝1敗でした。
81年にNWA世界ヘビー級王座がリック・フレアーに移るとNWAの実権はノースカロライナのジム・クロケット・ジュニア会長に移行。
NWA会長退任後もセントルイス・レスリングクラブのオーナーとして院政を敷いていたマソニックも高齢からプロモーター業を引退。パット・オコーナー、ラリー・マティシック達が後任となっていました。
今回のフレアーvsバックランドが行われたアトランタはNWAタイトル管理委員であるジム・バーネットの興行で行われました。
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