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2016年04月17日23:48

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ジャンボ鶴田怪物伝説(264)

82年7月7日、永田町のヒルトンホテルにて馬場(当時44歳)が記者会見を行い、河合元子さん(当時42歳)と6月18日付で婚姻届を提出し入籍したことを発表しています。

当時の報道は電撃結婚的な書き方をしているマスコミも多かったですが、元子さんの存在は実際にプロレスマスコミ及び関係者の間では周知の事実であり、ケーフェイ同様「知ってはいるけど、書かなかった」類いの話でした。

力道山の出土同様そういう意味での秩序は保たれていた訳です。

二人の出会いは55年、馬場17歳、元子さん15歳の時で馬場が読売巨人軍の投手時代から交際が始まり71年9月にハワイで結婚式を挙げておりました。

このタイミングで入籍をしたのは全日本プロレスも旗揚げして10年経った節目の年であり、そろそろいいんではないか、との話でした。

元子夫人はその後「女帝」と呼ばれ90年のSWS設立期、馬場没後の00年6月に起きた三沢光晴以下プロレスリングノア勢の大量離脱の要因となった人物として、おしどり夫婦としてテレビ番組で仲の良さをアピール、微笑ましい光景を見せていた一面もありましたが、一方難しい面もあったと聞きます。

いずれにせよ馬場は長い間独身と言われていたのでプロレスファンにとってはおめでたい明るいニュースとなりました。

7月9日、熊本市体育館のテレビ収録では鶴田はキラー・トーア・カマタとUNヘビー級王座防衛戦を行っています。

1月3日、後楽園ホールでの両者の同王座を賭けた対戦では1-1から反則勝ちで完全勝利は奪えていない鶴田でしたが、今回は1本勝負。

鶴田はカマタを流血に追い込んで、強烈なエルボーから140kgの巨体を軽々とバックドロップで完璧に投げきり、12分13秒、体固めで勝利。12度目の防衛に成功しています。

この時鶴田が見せたバックドロップはいわゆる「ヘソで投げる」ルー・テーズ式のそれで、従来使用していた相手の足を抱えて弧を大きくゆっくり投げるドリー・ファンク・ジュニア式とは違いました。

相手の胴に両腕を回して意反り越しに投げるテーズのバックドロップは日本人では使い手が少なかったです。

日本ではテーズの影響を受けた猪木が75年9月に左膝蜂窩織炎から復帰を果たしたあたりからフィニッシュとして多用、復帰直後にはテーズとNWF世界ヘビー級王座防衛戦を行うことになっていた為、意識して使っていました。

有名なところでは76年2月6日、日本武道館での最初のウィリエム・ルスカとの異種格闘技戦で見せたバックドロップ3連発が印象に残りますが、

綺麗なフォームでルスカを見事に投げていますが猪木のバックドロップは相手を落とす際に自らの右足が流れてしまっています。

元祖テーズのバックドロップは相手を投げ切るまで両足がピタリとマットにくっついており、鶴田のバックドロップはそのフォームについてはテーズ式を完全にマスターしていました。

猪木も全盛期を過ぎたあたりから研究を重ねたか、舌出し失神事件のハルク・ホーガン戦(83年6月2日蔵前国技館)、ブルーザー・ブロディとの初対決(85年4月18日両国国技館)等では、マットに両足を着けた綺麗なバックドロップを決めています。

残念ながら猪木は当時体力的なピークは過ぎておりバックドロップ一発でホーガン、ブロディといった怪物達を仕留めることは不可能となっていました。

後に書きますが鶴田が本格的にテーズからバックドロップの極意を伝授されるのは翌83年4月のグランド・チャンピオン・カーニバルにテーズが来た時になりますが、テーズ式の後継者というよりさらに強力な破壊力を持つバックドロップの使い手として別格に位置付けることが出来ます。

ちなみに、バックドロップも時代の流れと共に創意工夫されて自らの使いやすい独自の改良が為されていき、マサ齋藤、長州力の捻りを加えた型、馳浩を臨死体験させた後藤達俊の背筋を重視した型、スティーブ・ウイリアムスの垂直落下式のデンジャラス型、等は私はまた「別物」と考えます。

セミファイナルは大仁田にウルトラセブンが挑戦したNWAインターナショナル・ジュニア・ヘビー級選手権試合。

セブンは7月4日の栃木県日光市日光電工リンク特設リング大会で試合中に目を負傷。

アクシデント付きながらもタッグマッチで若手の越中詩郎にフォール負けを喫し早くも化けの皮が剥がれて来ていました。

試合は10分8秒、大仁田がセブンをサンダー・ファイヤーからエビ固めで破り4度目の防衛を果たしました。

この日から参戦の上田馬之助はタイガー・ジェット・シンとのタッグで馬場、阿修羅・原組と対戦、シンが原をコブラクローに仕留めています。

余談ですが、後年上田が交通事故で首から下の自由が利かなくなった時、亡くなるまで献身的な看護をした恵美子夫人は熊本でスナックをやっていた時に上田と知り合い、結婚(共に再婚)したとのことで、上田は生前熊本に生活の拠点を移していましたが色んな話を総合するとこの時に知り合った可能性が大です。

ミル・マスカラス、ドスカラスのマスカラス・ブラザーズは天龍、石川隆士組と対戦しマスカラスがダイビング・ボディアタックから石川を体固めに降し勝利を飾りました。

この4試合はどれもテレビ中継からは外せず、1本勝負移行は必然的な流れだと言えます。
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