当時のNWA世界ジュニア・ヘビー級王者はレス・ソントンでソントンは81年7月に王者として新日本プロレスに参戦。
当初藤波がソントンの王座に挑戦する予定でしたがこの時は結局NWAのベルトは賭けられず、逆にソントンが藤波のWWFジュニア・ヘビー級王座に挑戦、7月3日後楽園ホールでは両者リングアウト。7月31日大阪・臨海スポーツセンターでは藤波が回転足折り固めで勝利し防衛。現役NWA世界ジュニア王者ソントンを降した藤波はもはやジュニアに敵なし状態となりヘビー級へ転向しています。
この新間の記者会見が行われた翌日の82年4月23日、大宮スケートセンターで開幕のビッグ・ファイト・シリーズにソントンが王者として再来日。
この時タイガーマスクが王座に就くことを想定した上でタイガーマスクと大仁田厚とのジュニア統一戦を提唱しています。
会見が終わった後、新間は築地にあった東京スポーツ新聞社を訪ね、本山良太郎代表取締役社長、高橋典義取締役編成局長、桜井康雄運動部長と会談を持ち、前出のアジア選手権とジュニア王座統一戦に向け、全日本プロレスとの折衝を委任したと言われています。
つまり、引き抜き抗争で不利に立たされた新日本プロレスが全日本プロレスとの合同興行が出来るように取り計らって欲しいと頼みに行った訳です。
話を聞いた東スポ側も前年の全日本と新日本の引き抜き抗争から両団体の関係が非常に険悪になっていた点を考慮し、関係修復とプロレス界発展の為に、と考え出されたのが第2回プロレス夢のオールスター戦のプランでした。
東スポは3年前の79年と同じ8月26日に蔵前国技館を仮押さえしました。
これに対し馬場は「東スポさんから話があれば聞く位はいいけど、ウチと新日本との戦いは終わってなんかいないですよ」と乗り気でないコメント。
5月18日、銀座東急ホテルにて馬場、新間、高橋編成局長が三者会談を行い、そこで夢のオールスター戦に向けての話し合いが行われています。
そこで馬場から新間と高橋編成局長に対し「新日本プロレスとの間にはクリアすべき問題がある。オールスター戦をやりたければそれをクリアすべき」と条件を出しました。
クリアすべき問題とは何か?
これについては公にはされておらず馬場も高橋氏も既に故人となっており新間はおそらく自分に都合のいいことしか言わないでしょうから真相が世に出ることはおそらくないであろう、と思われこれは推測の域は出ないですが、こういうことかと思います。
新日本プロレス、特に猪木と新間についてはマスコミを使った事前の会社同士の打ち合わせのないアピールはやめ、全日本プロレスを自らの宣伝の為に利用しないこと。
猪木は過去の経緯から何を仕掛けて来るかわからないので馬場vs猪木戦は受けられない。
この2点が主体かと思います。
当時の報道では前年に勃発したレスリング・ウォー(引き抜き抗争及び興行戦争)をやめることが馬場が出した条件と書かれています。
ですが引き抜きをやめることに関しては以前に書いた通りスタン・ハンセンを引き抜かれた新日本が事実上負けを認め、新間が馬場からも信頼されていた雑誌ゴング編集人、竹内宏介氏に口利きを頼み、2月7日に馬場、猪木、新間会談で休戦を申し入れて馬場もこれに応じていました。
しかしこの会談の事実は伏せられていましたので表向きはまだ両団体によるレスリングウォーは続いていることになっていてそれが「クリアすべき問題」として報道されていました。
おそらく新間も馬場vs猪木は日本テレビとテレビ朝日の契約問題から出来ないことは十分承知していたと思いますが6月18日、新日本プロレス蔵前国技館大会でリングに上がった時、第2回オールスター戦の話が進行していることを観客に向けて喋り、
「鶴田vs藤波、タイガーマスクvs大仁田を実現させたい、ファンの皆様の力を貸して下さい」と新間節でアピール。
これは完全なるフライングであり、馬場はこの新間発言の挙げ足を取ってか、6月24日に第2回オールスター戦は出来ないとの考えを明らかにしました。
これにより7月3日都内ホテルにおいて馬場、猪木、新間がマスコミ非公開の元、この年2回目の極秘会談を持っていますが(この時も竹内氏が間に入っていた)結局話し合いは平行線のまま、オールスター戦の話は頓挫してしまいました。
結局、猪木の「(馬場を)リングにさえ上げてしまえばこっちのもの」といった感覚は昔から変わってなく、馬場が猪木を信用していなかったのが全てであり馬場は新間に対し、今後は新日本プロレスとの話し合いの際は坂口を窓口とするように要望が出されたそうです。
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