馬場vsハンセンで沸き返った82年2月4日の東京体育館で鶴田はニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座に挑戦。ニックの王座へは日本国内ではこれが初めてでした。
王者ニックは前年5月10日、イリノイ州シカゴ・コミスキーパークでバーン・ガニアがニックを破って王者のまま引退。その後王座決定戦を行うことなく新王者に認定されていました。
数日前の呟きで昭和ファンのマナーの悪さについてコメントしましたが、この時入場してきたニックに通路にいたファンが「梶原」と書いたプラカードを首にかけてしまい、自分への歓迎の意と思ったニックはこれを看過して着けたままリングに上がってしまいました。
試合は鶴田がニックをエアプレーン・スピンに担ぎ上げと回したところで両者場外に転落、鶴田は何を思ったか、場外でもニックにエアプレーン・スピンをかけ続けて18分44秒両者リングアウトの引き分け。
ベルトが獲れないのがわかっていてこういう試合をしてしまうあたりはやる気を失っていたか?センスはこんなものだったのか?善戦マンもここまでくるとファンに愛想をつかされかねない試合でした。
ミル・マスカラスのIWA世界ヘビー級王座に挑んだ天龍はこの日よりテーマ曲「サンダーストーム」(高中正義)で入場。テレビ放送ではファンの選曲によるものと紹介されていました。
名前の上がった「大阪の田中さん」は大変な偉業を為し遂げた訳でSWS時代に一時オリジナル曲に変えていた時期もありましたが33年間にわたって愛された名曲でした。
試合はマスカラスのダイビング・ボディアタックを天龍が一回転、さらにそれをマスカラスが反転させての片エビ固めで勝ち王座防衛となりました。
1週間前の1月28日、新日本プロレスが同じ東京体育館で猪木vsアブドーラ・ザ・ブッチャーをメインに興行を開催していますがこちらは9000人(満員)発表。
ブッチャーの間合いのプロレスは猪木とは合わず凡戦に終わり(猪木の反則勝ち)、観客動員でも試合内容でも馬場全日本が興行戦争は完勝を収めました。
新日本の強さの象徴であったハンセンを引き抜かれたことで、新間寿営業本部長は引き抜き抗争では事実上の負けを認め、雑誌ゴング編集人である竹内宏介氏に仲介を依頼し馬場に停戦を申し入れ、2月7日に都内ホテルでマスコミ非公開のもと馬場、猪木、新間による会談が行われ、「選手の引き抜きは止めること」で合意に達しています。
シリーズが終わると馬場、鶴田、天龍はアメリカ遠征に出発し日本テレビのクルーも同行しました。
2月20日、フロリダ州セントピータースバーグ・ベイフロントセンターアリーナでは鶴田、天龍組が日本より一足早く結成されたハンセン、ブルーザー・ブロディの超獣コンビと対戦。ハンセンがラリアットで天龍にフォール勝ち。
2月28日、ジョージア州アトランタ・オムニセンターで馬場がこの時未来日だった21歳のテリー・ゴディを破ってPWFヘビー級王座を防衛。
3月7日、ノースカロライナ州シャーロッテ・コロシアムでは鶴田は前年4日間だけハーリー・レイスに勝ってNWA世界ヘビー級王者となった未来日のトミー・リッチを相手に両者リングアウトの引き分けでUNヘビー級王座を防衛しました。
同日、アメリカ修行中の大仁田厚がチャボ・ゲレロの持つNWAインターナショナル・ジュニア・ヘビー級王座に挑戦。
14分40秒、前方高角度回転エビ固めでチャボから殊勲のフォール勝ちを収め新王者となっています。
新日本に遅れること4年、全日本にも日本人ジュニア・ヘビー級の人材がようやく現れた訳ですが、新日本の藤波、タイガーマスクがあまりにも凄過ぎたが為に大仁田は常に比較されて厳しい王者ロードを歩むことを余儀なくされるようになります。
3月19日、後楽園ホールで第10回チャンピオン・カーニバルが開幕。ブロディ、ビル・ロビンソン、テッド・デビアス、アレックス・スミルノフ、国際プロレスの常連だったモンゴリアン・ストンパーらが参加。
日本側は天龍、石川隆士、佐藤昭雄らが初参加。阿修羅・原もエントリーされていましたが、家族の不幸を理由に欠場。途中参戦していますがリーグ戦は棄権しています。
開幕戦で鶴田はブロディと両者リングアウトの無得点試合で0点発進。
4月9日、鳥取産業体育館で行われた馬場との師弟対決は公式戦では6年連続時間切れ引き分け。
この年の大会以降、リーグ戦形式は撤廃され、91年に復活した時は馬場は既にメインから退いていた為、これが最後のシングルマッチとなっています。
馬場とのシングル通算対戦成績は9戦して馬場の3勝6分でした。鶴田は結局「馬場超え」はならず。鶴田には下剋上的な発想は微塵もなかったのでこれは仕方なしと言ったところでした。
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