81年3月27日、後楽園ホールで開幕した第9回チャンピオン・カーニバルに鶴田はディフェンディング・チャンピオンとして参加。馬場、タイガー戸口ら日本勢にアブドーラ・ザ・ブッチャー、ブルーザー・ブロディに出戻り参戦のジャック・ブリスコらの外国人勢が参加。
前年度準優勝者のディック・スレーターは参加が予定されていましたが来日前の2月にテキサス州郊外で交通事故に遭い来日中止。スレーターの事故はその後の彼のレスラー人生を大きく左右する重傷でした。
鶴田は4月2日、水戸市民体育館で馬場と30分時間切れ引き分け。
ブロディはウェイン・ファリス(ホンキートンク・マン)を16秒で降しました。このシリーズからブロディの入場テーマ曲に移民の歌(石松元と彼のバンド、原曲はレッド・ツェッペリン)が採用されました。
4月10日、広島県立体育館では後にプエルトリコの黄金カードとなるブッチャーとブロディが対戦し両者リングアウト。
このシリーズの終盤1週間はインター・チャンピオン・シリーズとして前王者大木金太郎が「NWAの勧告」のもと、ついに力道山先生の遺産、と執着を見せていたインターのベルトを馬場に渡すことに合意しています。
大木は80年2月に東京12チャンネル(テレビ東京)主導の元国際プロレスに入団、国際のリングで念願だった日本でのインター王座防衛戦を行いました。
東京12チャンネルとの契約は半年毎の見直しでした。
前年79年からの新日本プロレスとの提携路線で視聴率を地道に伸ばしていった「国際プロレスアワー」は、80年10月の番組改編期に、毎週月曜日午後8時から毎週土曜日午後8時に昇格。
しかしこの時間帯は馬場の日本テレビ、全日本プロレス中継が苦戦を続け、79年3月一杯を以て撤退を余儀なくされた厳しい時間帯。
全日本が駄目だった時間帯に国際を放送しても最初から上手くいく訳もなく、移行第1弾となった10月4日、近江八幡市立運動公園体育館からの90分枠生中継特番は、
ラッシャー木村vsビッグ・ジョン・クインのIWA世界ヘビー級選手権試合、大木vs上田馬之助のインターナショナル・ヘビー級選手権試合、マイティ井上、アニマル浜口組vsアレックス・スミルノフ、ザ・USSR(チャーリー・フルトン)組のIWA世界タッグ選手権試合の3大タイトルマッチを開催、特別レフェリーにルー・テーズを招聘し必勝を期しましたが視聴率は4.5%と局側ノルマ10%に届かず。
結果的に放送時間帯の昇格は完全に裏目に出て81年3月28日放送分を以て東京12チャンネルは国際プロレスアワーのレギュラー放送を打ちきり、国際は崩壊への道をたどっていきます。
大木は数字が取れないとして契約は延長されず、11月10日、右角膜エロゲオンなる病気を理由にシリーズを途中欠場し韓国に帰国し、そのまま退団となっています。
大木は韓国で始めていた水産事業が上手くいかず運転資金が必要であり、馬場と水面下で交渉、インターのベルトを売却する見返りとして全日本への復帰を果たすことで合意しました。
馬場はこれで72年9月にインターのベルトを日本プロレスに返上して以来、実に8年半もの歳月を費やしてついに愛着深いインター王座を自らの手中に取り戻しました。
その執念たるや凄まじいものがあります。
日本プロレスの遺産であるワールド・リーグ戦の純銀大トロフィー、インターのシングルとタッグ、UNヘビー級、アジア・ヘビー級とタッグ。
馬場は時間をかけてこれらを全て自分の管理下に収めました。
実際、これらの日本プロレスの遺産は、日本プロレスを最後まで放送したNET(テレビ朝日)も狙っており、75年の新日本プロレス第2回ワールド・リーグ戦には優勝トロフィーが寄贈される話もありました。
76年2月、新日本プロレスがアジアのヘビー級とタッグを新設してアジア・リーグ戦の開催を発表した時も、新日本と日本プロレス芳の里代表との間でベルト売買の話が進んでいました。
しかし、プロレス中継の老舗日本テレビが黙って見ている訳もなく、これを金銭により妨害したのは後から明らかになっています。
75年に新日本に上がっていた大木を全日本が引き抜いたのも、このままいけばインターのベルトが新日本に横取りされかねないのと、4月4日、蔵前国技館での猪木とのワールド・リーグ公式戦で大木が頭突きの奇襲で1分16秒、リングアウト勝ちを収め、結果的に猪木から「勝ち逃げ」しているのが大きな要素でした。
インター王者の大木は4月13日に来日し、ベルトを返上して帰国。4月25日、沼津市民体育館からスタートする復活インターナショナル・ヘビー級王座決定トーナメントにシード参加が発表されていましたが、棄権しています。
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