80年8月22日、品川プリンスホテル・ゴールドホールでブラディ・ファイト・シリーズが開幕。開幕戦からいきなりボブ・バックランドに猪木が挑戦したWWFヘビー級選手権試合が組まれました。
試合は20分31秒、両者場外転落したところスタン・ハンセンとラリー・シャープが乱入、両方に攻撃を加え、先にリングに上がった猪木がリングアウト勝ち。ルールによりベルト移動はありませんでした。
この終わり方は78年12月14日、大阪府立体育会館での両者のタイトル戦にヒロ・マツダ率いる狼軍団が乱入した時と同じパターンでしたが、試合後、バックランドと猪木が共闘宣言。タッグを組んでハンセン、シャープ組に屈辱を晴らすと言う流れになりました。
これは8月15日に早々と年末開催を発表したMSGタッグ・リーグ戦への布石であり猪木とバックランドは2日後の8月24日、田園コロシアムで早くも初タッグを結成しハンセン、シャープ組を2-1で撃破。
既に参加決定第1弾として発表されていたハンセン、ハルク・ホーガン組に次いでエントリーが決定しています。
バックランドはシリーズ序盤で帰国、9月11日、大阪府立体育会館では当初3大タイトルマッチの開催が発表されました。
猪木にハンセンが挑戦するNWFヘビー級選手権試合、藤波にトニー・ロコが挑戦するWWFジュニア・ヘビー級選手権試合に加え、坂口、長州組にシャープ、バッドニュース・アレン組が挑戦する北米タッグ選手権試合が予定されていました。
アレンはこれで年頭の新春黄金シリーズから5シリーズ連続参戦となり、北米王座にはこの年シングル2回、タッグ3回も挑戦することになりましたが、ペンシルバニア州フィラデルフィアに住んでいたアレンの息子(当時6歳)が交通事故に遭い、途中帰国。
結局、シャープの代役のパートナーを立てることなくタイトル戦は中止になっています。
他にピート・ロバーツ、ジョニー・ロンドス等欧州の実力者はいましたが見送られました。77年12月8日、蔵前国技館で坂口、ストロング小林組の北米タッグ王座にパット・パターソンと組んで挑戦予定だったクルト・フォン・ストロハイムが腕を負傷して欠場した時は、代役に軽量級のスティーブ・ライトを挑戦者にしてタイトル戦を行いましたが、当時からすると選手層も厚くなり、観客動員にもさしたる影響はなかったことから中止に踏みきったと思われます。
大阪で猪木は17分47秒、リングアウト勝ちで辛うじて3度目の防衛。しかし、猪木が勝利の「ダーッ!」をやろうとした瞬間、ハンセンが背後から猪木の後頭部めがけラリアット一閃、猪木は首を痛めシリーズを途中欠場。
藤波は20分1秒、前方高角度回転エビ固めで曲者ロコを破り15度目の防衛を果たしています。ロコはラフよしテクニックよしのいい選手ですが試合に負けた後の「カウントが早い、俺は負けてない」アピールがくどかったです。
9月22日、米子市民体育館で坂口はシャープとWWF北米ヘビー級王座防衛戦を行い10分48秒、逆エビ固めで3度目の王座防衛。
前回が3月28日、久留米でのアレン戦ですから、北米シングルは6か月の防衛期限ギリギリのタイトル戦だった訳です。
シリーズ最終戦は9月25日、広島県立体育館大会。17日の新潟県柏崎市スーパーこたや駐車場特設リング大会から復帰していた猪木がNWFヘビー級王座を賭けてハンセンと再戦。
この試合で猪木はハンセンの意表を突く逆ラリアットを見せて10分49秒、逆さ押さえ込みで大逆転勝利で4度目の防衛。
藤波は木村健吾の持つNWAインターナショナル・ジュニア・ヘビー級王座に挑戦し24分36秒両者KOの引き分けとなっています。
同王座は2月1日に札幌中島スポーツセンターにおけるスティーブ・カーンとのWWFジュニア王座とのダブルタイトルマッチで藤波が勝ち王座獲得した後は、
2月8日、東京体育館でSカーンのリターンマッチを2-1で退けた後、藤波はフロリダに王者として遠征。12日セントピータースバーグではSカーンに勝ったものの、15日ハリウッドでマイク・グラハムの足4の字固めの前に2-1で敗れて王座転落。
王者グラハムが3月に来日し4月4日、川崎市体育館で藤波がジャーマンで勝ち王座返り咲きしています。
4月16日マイアミビーチでドン・ダイヤモンドを降し初防衛に成功しましたが7月2日、札幌中島体育センター(この年の4月から建物の所管が札幌市から北海道に代わり、北海道立札幌中島体育センター別館が正式名称となる)で予定されていたジョニー・マンテルとの防衛戦は右手薬指骨折により欠場となりタイトルを返上。
7月23日北九州市西日本総合展示場で行われた王座決定戦でブレット・ハートを破った木村健吾が王者となりました。木村健は8月24日田園コロシアムでPロバーツに勝ち初防衛に成功していました。
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