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2015年09月20日17:30

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新日本プロレス北米選手権考察(6)

74年は年頭から猪木が日本選手権の開催を訴え続け、馬場に挑戦を執拗に繰り返しました。

元国際プロレスのエースだったストロング小林と日本プロレスの先輩大木金太郎を連続して倒した猪木は実力日本一の呼び声も高くなりました。

しかし馬場は年末に来てその「答え」を出しました。

12月2日、鹿児島県立体育館でジャック・ブリスコを2-1で破り日本人初のNWA世界ヘビー級王座に就きました。

馬場は12月5日、日大講堂でのPWFヘビー級王座も賭けたダブルタイトルマッチでも2-1とブリスコのリターンマッチを退けていますが、12月9日、豊橋市体育館でブリスコに2-1で敗れ王座転落。7日天下に終わりました。

しかし、師匠力道山さえ巻けなかったNWAのベルトを1週間とは言え巻いたことで馬場は世界最高峰を極めました。

馬場は猪木に対し、日本一を決めようというレベルに自分は存在しない、世界一が自分のステータスである、という痛烈な答えを突き付けました。

馬場が猪木に対して見せつけたかったのはレスラーとしての強弱ではなく、プロモーターとしての政治力の差だったと思います。

そう、新日本プロレスがローカルタイトルのNWF世界ヘビー級王座をジョニー・パワーズから獲得したり、NWA認定の北米タッグ王座を作って権威付けしたのをあざ笑うかのように。

12月12日、蔵前国技館での2度目のS小林戦を卍固めで返り討ちにした猪木は翌13日、馬場に対して内容証明郵便で挑戦状を送付しました。

「立ちたまえ、馬場さん、我々は共に力道山門下生として強さを競い合った同士、テレビ放映権も全て渡すからどちらが強いか戦って真の日本一を決めようではないか!」

これに対しての馬場は「NWAは加盟団体以外との対戦は認めていない。戦わないのではなく戦えないんだ。猪木がどうしても俺と戦いたければ、まずはNWAに加盟することだ。」

勿論、これは建前に過ぎません。

猪木のテレビ放映権を渡す、というのもおそらくハッタリと思われます。

馬場の論理が正しければ猪木、坂口はロサンゼルスのリングには上がれませし北米タッグ王座を獲得することは勿論のこと、試合すら組んでもらえないでしょう。

また、馬場vs猪木戦を日本テレビが独占放送というのもNET(テレビ朝日)が黙ってるはずもなく、こちらも信憑性に欠ける話かと思います。

タッグ王座については馬場はこの時はPWFのタッグ王座を作ることはなく、かつて日本プロレス時代に猪木とのコンビで保持していたインターナショナル・タッグ王座を愛弟子のジャンボ鶴田と共に獲得すべく着々と計画を進め「日本プロレス界の保守本流」の道を歩んでいきました。

明けて75年1月3日新日本の新春黄金シリーズ開幕戦、越谷市体育館にS小林が姿を現しフリーでの新日本プロレス参戦を表明。

1月4日に行われた第1回東スポプロレス大賞授賞式では馬場と猪木が公の場で久しぶりに顔を合わせていますが、新日本と全日本のムードは終始険悪な雰囲気でした。

2月のビッグ・ファイト・シリーズ開幕を前にこのシリーズに参加予定のタイガー・ジェット・シンをNWF本部が指名したことに対し猪木が激怒。

シンと猪木は伊勢丹前襲撃事件から遺恨がエスカレートし前年6月には大阪で猪木がシンの腕を骨折させるアクシデントが発生。シンは日本追放処分となりました。

挑戦者としてシンを送り込んで来たNWFに対し、「挑戦者としての資格に欠ける」と猪木はニューヨーク州バファローのNWF本部に乗り込んで抗議。

猪木の抗議は受け入れられずに怒った猪木はNWF世界ヘビー級王座を返上して日本へ帰国しました。

猪木ベルト返上の責任を取ってデビット・ヘルマン(ディック・フェラルドマン)会長が辞任、会長代行のジェリー・アレン・プラター氏が猪木の師匠であるカール・ゴッチを特使として日本に派遣。

猪木はゴッチの説得に耳を傾け、筋を通すことでベルト返上は撤回しないがシンと3月13日広島県立体育館で王座決定戦を行い、どちらが勝っても3月20日、蔵前国技館でシンと再戦を行うことで合意に達しました。
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