74年5月24日、足立区体育館で開幕したゴールデン・ファイト・シリーズに初来日したNWA北米タッグ王者チーム、カール・フォン・ショッツ、クルト・フォン・ヘス組のナチの戦犯コンビは恐るべき強さを発揮。
開幕戦では70年日本プロレスの第1回NWAタッグ・リーグ戦優勝チームである猪木、星野勘太郎組と対戦しショッツが1本目は星野、2本目は猪木からフォールを奪って2-0のストレート勝ち。
日本で初めて2人がかりのクローズラインを見せたのがこのチームでした。
クローズラインはスタン・ハンセンのラリアットのアメリカ版総称みたいな感じですが、その意味は「物干し竿」を現し、対戦相手の首を引っ掛けるという意があります。
翌年来日したハリウッド・ブロンドスもこのダブルのクローズラインを見せていましたがこの技のインパクトに関してはやはりショッツ、ヘス組が上と見るべきでしょう。
北米タッグのタイトルマッチは6月7日、札幌中島スポーツセンターで猪木、坂口組が挑戦。1本目を坂口がヘスからアルゼンチン・バックブリーカーで奪ったものの、2本目はショッツが坂口を体固め。
3本目は猪木が暴走の反則負けとなり、猪木、坂口組は王座奪取成らず。
このシリーズは後半戦にタイガー・ジェット・シンが特別参加し6月20日蔵前国技館と26日大阪府立体育会館で猪木とNWF世界ヘビー級選手権試合2連戦を行い、大阪では猪木がシンの右腕を骨折させるという戦慄の結末をとなり、話題はそちらに集中しました。
シリーズ中日本では北米タッグ王座へのリターンマッチはなく、猪木、坂口組は次のサマー・ファイト・シリーズ終了後、1年ぶりにロサンゼルス・オリンピック・オーデトリアムのリングでショッツ、ヘス組に挑戦しています。
1本目はショッツが坂口を体固め、2本目は猪木がヘスをコブラツイスト。
3本目は坂口がショッツからアルゼンチン・バックブリーカーでギブアップを奪い、4度目の挑戦にしてついに猪木、坂口組が王座獲得。新日本プロレスにタッグのベルトがもたらされました。
この年も8月前半に猪木は数試合シリーズを休んで渡米しNWA総会でNWAへの加盟を申請しましたが2年連続して反対多数により加盟申請は否決されました。
もちろん、馬場の妨害であったことは言うまでもありません。
新日本プロレスはこの時NWA非加盟ながら、「NWA認定」の北米タッグ王座に猪木、坂口組が就いたのでありました。
その後74年の年内は9月10日、愛知県体育館でニコリ・ボルコフ、シーク・オブ・シークス・バクダッド組、12月5日、大阪府立体育会館でアンドレ・ザ・ジャイアント、ロベルト・ソト組、12月19日にはブラジル遠征で北伯のロンドリーナ・モリンゴン・スタジアムでアンドレ、トニー・チャールス組を撃破し3度の防衛を果たしていますが、
この年は猪木と新日本プロレスにとっては飛躍の1年となりました。
猪木は7月30日、名古屋・吹上ホールでは前NWF世界ヘビー級王者ジョニー・パワーズの挑戦を受けてリターンマッチを行い2-1でこれを退け、8月1日大阪府立体育会館と8日日大講堂では師匠であるカール・ゴッチと実力世界一決定戦二番勝負を行い大阪では猪木が勝ち東京はゴッチの勝利で1勝1敗。
10月10日蔵前国技館では日本プロレスの先輩でデビュー戦の相手だった大木金太郎と対戦。壮絶な喧嘩マッチの末13分13秒、バックドロップからの体固めで勝利。
元国際プロレスのエース、ストロング小林に次いで大木も破り実力日本一の呼び声が高くなった猪木はこの年馬場に執拗に挑戦を迫り、日本選手権の開催に向けてマスコミを使って馬場を挑発し続けていました。
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