猪木のNWF世界ヘビー級王座奪取は日本のプロレス界には画期的な出来事でした。
それまでの長い日本プロレス界の歴史を辿ると、異論のある方もおられるかと思いますが、力道山、馬場のインターナショナル王座、猪木、坂口のUN王座はもちろんのこと、
全日本プロレスの馬場のPWF世界ヘビー級王座、国際プロレスのIWA世界ヘビー級王座はいずれも日本で作られた言わばお手盛りのタイトル。
62年に力道山がフレッド・ブラッシーを破り獲得したWWA世界ヘビー級王座が唯一の例外でした。(64年には豊登も獲得)
猪木のNWFはローカルプロモーションながらアメリカの団体のベルトであることには間違いなく、ベルトの国際的権威にこだわる新日本プロレスの関係者、マスコミ、ファンを喜ばせました。
一番喜んだのは猪木でしょう。翌74年は猪木と新日本プロレスにとって躍進の年になりました。
3月19日には蔵前国技館で国際を離れフリーとなったストロング小林の挑戦を受けて立った猪木はジャーマンでこれを撃破し初防衛に成功。
4月には日本プロレスの春の本場所だったワールド・リーグ戦を復活させています。
5月8日、決勝戦の舞台となった東京体育館には(猪木がキラー・カール・クラップを弓矢固めに降し優勝)WWWFのオーナーであるビンス・マクマホン・シニアが立会人として来日しています。
忘れ去られた感のある北米タッグ王座でしたが、これは単にタイトル戦を組む時間がなかったからでしょう。
74年5月24日、足立区体育館で開幕したゴールデン・ファイト・シリーズに北米タッグ王者チームとしてナチの戦犯コンビ、カール・フォン・ショッツ、クルト・フォン・ヘス組が初来日しています。
当初、ショッツ、ヘス組はNWF世界タッグ王者チームとして来日予定で当時のゴングやプロレス誌には猪木、坂口組が同王座に挑戦すると報じられています。
しかしショッツ、ヘス組はNWAノースアメリカン・タッグ王者チームとして来日。この時に新日本で使われるベルトを巻いてリングに上がりました。
ベルトのデザインは黒革に黄金の幅広の台座でバックルにはハッキリと「NWA」の三文字が刻まれておりました。
NWF世界タッグ王座はもっと経歴不明の王座ですが、72年に海外修行中の日本プロレスの高千穂明久(ザ・グレート・カブキ)が挑戦している記録があるところから、実在していたと思われます。
プロレス団体には普通シングルとタッグの王座は存在しますのでこの時点でショッツ、ヘス組がNWF世界タッグ王者チームだったことも事実かと思います。
後に別冊ゴングに掲載された新日本プロレスのタイトル変遷史によると北米タッグ王座はパワーズ、パターソン組からショッツ、ヘス組に移動したとなっていますがこれは流石になしでしょう。
新日本プロレスは北米タッグ王者チームをショッツ、ヘス組に仕立て上げ猪木、坂口組にタッグベルトを巻かせるべく仕掛けていきました。
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